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「新しい歴史教科書」問題 ―「私たち」と時代の空気
高口康太
はじめに
今年の4月、「新しい歴史教科書をつくる会」が製作した、扶桑社の中学校用歴史教科書・公民教科書が、検定に合格した。国際問題にもなり、批判についても援護についても、新聞・雑誌・書籍などで、膨大な文章があふれている。これから、採択というもう一つの山場を迎えるわけだが、それに伴い、また多くの論戦が交わされるであろう。
さて、ここで私がやろうとしていることは、「扶桑社教科書」自体の分析ではない。「つくる会」=送り手、の問題ではなく、賛同者=受け手の問題として考えてみたい。
つくる会の著作物は、パイロット版として出版された「国民の歴史」が70万部を超える売上げを記録し、「扶桑社中学校用歴史教科書」が週間売上げランキング1位を記録した。これらの購入者の全てが、積極的な支持者だとは考えないが、相当数の支持者を持つと考えるべきである。そして、支持者の主な年齢層は20代から30代の「若者」と言われている。
なぜ、「つくる会」の運動に、多くの賛同者がいるのか。彼らが賛同する論理を、私を含む時代の問題として検討する。それが、本稿の目的である。
○「つくる会」の目的
ここでは私がとらえた「つくる会の目的」を簡単に書く。
それは、「国家の復権」という言葉に集約されるであろう。
戦後の歴史教育、そして思想潮流の中で、日本では「国家」というものはある意味批判的なまなざしを向けられてきた存在だといえる。その流れを逆転させて、「愛国心」をもつこと。「国益」を考えること。「公」の立場をとること。これらを是とする潮流をつくろうとすることこそが、彼らの目的だと言える。
そのための道具として、歴史教育が位置付けられている。上記のような「感覚」を身に付けるために、中学生という年代に日本を美化する教育を行う。それにより、「国家への帰属感」を身に付けさせようとするものである。
扶桑社の歴史教科書にしろ、公民教科書にしろ、そのなかには「公」を大事にせよというメッセージが繰りかえし、あらわれてくる。
多くのことを語っているようであるが、その目的は非常にシンプルなものだといえよう。それに対して、どのような批判が存在するのか。以下、「扶桑社教科書」への批判を検討する。○「扶桑社教科書」への批判
ここでは、「扶桑社教科書」に対する批判を、以下の四つの類型から考えてみたい。
1・記述のあやまり
単純に教科書の記述に誤りが多く、実用に耐えないというものである。この立場からの批判者は、記述の間違い自体を指摘することを目的とするものではなく、むしろ「記述のあやまり」という客観的な問題から、「扶桑社教科書」を批判しようとするものである。
その代表格は、「新しい教科書をつくる会に反対する声明」(「教科書情報資料センター」ホームページのものを使用。)である。これは東大の和田春樹教授らが、扶桑社教科書の近現代編(4章・5章)を対象に、その記述のあやまりを指摘したものである。
歴史教育がいかにあるべきか、などの混乱しやすい問題に立ち入るのを避け、客観的に批判しようとする点は理解できるが、成功しているとはいいがたい。この「声明」でも、51箇所の問題点を指摘しているが、明らかな事実の誤りとしているのはそのうち12箇所にすぎない。その他の指摘は、まだ決着していない問題を断定的に取り扱っている、誤解を招きやすい表現がある、などの形で行われている。
もちろん、12箇所の誤りは決して少ないとはいえないだろう。しかし、その誤りとされた記述を直したとして、「扶桑社教科書」はその問題性を失うか、と言われれば、答えはNOである。そのトーンは変わらないだろう。そもそも検定で、多くの修正を課せられたとはいえ、そのトーンは変わっていないのである。
また、さらには、歴史教育は歴史学とは別物である。教育としてより効果をあげるためには、絶対に事実を書く必要がある、とする立場はナンセンスであるというような立場とは、まったく接点を持たない議論なのである。2・「右傾化」「戦前教育の復活」「皇国史観の復活」
上にあげた内容を叫び、「扶桑社教科書」を批判する立場がある。しかし、それはあまりにもナンセンスな捉え方だと考える。このような内容は、戦後一貫して絶対悪として扱われてきた言葉だが、その内容を検討すると、必ずしも「扶桑社教科書」は一致するものではない。むしろ、そのようなレッテルはりをすることで、批判をした気になるような態度。その態度自体に反感を抱く人間が多いのではないだろうか。
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