エロティシズムへの意志
田澤 彰
エロティシズムについて
私の専門は表向きシュルレアリスムであるが、自分自身ではそう思っていない。専門はエロティシズムである。おそらく人間の文化活動においてこれまで欲望に目を向け、それをあからさまに称揚した運動はシュルレアリスムだけであろう。
第二次性徴のころからそうであったが、基本的に性交は私にとってエロティシズムになり得ない。最近ことに思うことは、人々のエロティシズムがファロス(象徴的男根)中心になっているのではないかということである。たとえば、「大人のおもちゃ」等が売っているアダルトショップに行ってみるとよく分かるのだが、男根を模したもの、男根の勃起を支援するもので満載である。また、正式名称は知らないが、「勃起不全は医学的病気です」という意の政府公式のCMなどもある(確か佐野史郎がでてた)。つまり、ファロスがエロティシズムの主たるものである認識が公私ともに浸透している。ゆえに、たいていの人はこの言説内でのエロティシズムを獲得するだろう。幸か不幸か私はそうはならなかったし、なれなかったが。
そこで最近得たエロティシズムについて多少言を弄しよう。
ある日タイトルに引かれてバタイユの『エロスの涙』(最近筑摩から文庫化された)を読んでいた。時間帯は六時頃、東京方面域の総武線がラッシュを迎える時間帯である。たまたま私は椅子に座り、バタイユと戯れていたが、その時であった。いきなり目前に、遅刑(だったと思うけど、寸切りのことね)に処せられる清代の受刑者の写真が出てきたのは。身体をつるされ、両手両足を失い、胸部の皮を剥がれて血を滴らせる受刑者、しかし、その顔は恍惚に満ちている! バタイユの説明によれば、寸切りをされる受刑者はその苦痛を和らげるために、阿片を与えられてから処刑されるそうで、恍惚に溢れた顔になるそうだ。
私はそのモノクロ写真を見た瞬間恐ろしいまでのエロティシズムにおそわれた。共有しにくいだろうが、できるかぎり言語化するのなら、自分を中心として時間の流れが急激に遅くなり、温度、湿度共に上昇し、それにともなって体温も上昇して喉が焼けつくような状態になった。思わず、ビールがほしい気分である。
一体これはなんに由来するのか。まず、私自身がサディストなので、寸切りという処刑に対して最初のエロティシズムを感じた。次にその受刑者が「絶望」や「苦痛」ではなく、「恍惚」の境地にあっったという私の想像する表情を裏切ったというねじれが加味される。さらにそこまでのエロティシズムを衆人環視(もちろん他人が私を見ているかどうかは問題ではない)のなかで享受するというバタイユが『エロティシズム』でしめした「侵犯」のエロティシズムがあった。構造化するとこうなるだろう。最初の二つは自分の内部へと向かうエロティシズムであり、その私的なものであるはずのエロティシズムを他者の視線に晒して公的なものにすることで、禁止を侵犯するというエロティシズムを享受したのである。
その日は心臓がばくばくいってなかなか寝られなかったとだけ記しておく。
プチブルの印象派好き
まず大抵のプチブルは「西欧」が大好きである。だいたいの心性をお話しすると、まず、その趣味については「近代物」が大好きである。文学ならフランス、もしくはイギリス近代文学(そこでロシア文学をあげる人は、心にいわゆる「闇」がある人が多い)、絵画なら印象派(もしくは嫌になるぐらいの写実的な絵画)、音楽ならショパン。一戸建てを郊外に持ち、外車を所有することに憧れる。よしんばこれらのものを手に入れたのなら、何かしらのパーティを開きお披露目の儀式をし、自らがプチブルに参入したイニシエーションを執り行う。大筋でこの路線であることには間違いない。彼らなりに「あこがれの生活」を手に入れようと涙ぐましい努力を惜しまない。この努力をP・ブルデューは「上昇志向──プレタンシオン(気負い)」と呼ぶ。いわゆる大ブルジョワはこの手の物をあらかじめ所有しているため、わざわざそれをお披露目する必要がない。
ちょっと付け加えておくならば、最近では文学を読むことに難儀する世代がでてきたためか、文学に対するアプローチは減っているように思える。むしろ「見る」という行為だけで済ませることのできる映画や、絵画への志向の方が主流であろう(もちろんそんなに単純な行為で「見られる」はずはないのだが、彼ら・彼女らにとってはそれで満足なのだ)。