晶子は当時、本当に暇だったらしい。高校には通っていたが(うちの高校の一つ先輩だった)特に何もせずに生きていた。彼女いわく、何をするべきことがあるの?私が何もしなくても地球は自転しているし、ツバメは巣を作る。だから私何もしないことにしたの。
 実際、晶子は何もしなかった。したい事しかしなかったというのが正確な言い方だろう。突然僕のうちに来て十何枚もホットケーキを焼いてみたかと思うと(本で作り方覚えたの、と彼女は卵を泡立てながら笑っていた。)、何週間も電話にでないこともあった。ひどく気分屋で少々エキセントリックなところもあったが、僕達はとても気があった。彼女といると、僕の悩んでいることが急に馬鹿らしくなってしまうのだ。
「馬鹿らしいと思うのなら悩まなきゃ良いじゃない。この世の中の殆んどのことは如何でもいいことなの。それとも自分にはそんなに価値があると思うの?」
「でも僕は僕の人生を生きなくてはいけない。その責任がある。そんな風には割り切れないよ。」
 僕は苦笑しながら言った。晶子は隣でオレンジジュースをつまらなさそうに飲んでいる。日にあたっている時の彼女は元気が無い。
「でも、悩みが無ければ人生なんてつまらないわね。」
 そういうと、飲みかけのグラスを向こうに押しやる。そしてまじまじと僕の顔を見て、
「裕作ってホントに、まともね。」
「育ちがいいからね。」
 彼女は暫くそれについて考えてからこう締めくくった。
「でも馬鹿だわ。」

 晶子はその後一年浪人して(彼女が勉強など本気でするはずが無い)僕と同じ大学に入った。僕らはけんかも殆んどせず穏やかに暮らしている。

 これが僕の生活だ。

 さて、そろそろ話を本題に戻す。影なし男とは何か。
古典にあたると影という言葉は、光をさす。光が無いところには影も無い、言葉というものは上手く出来ていると思う。逆にいえば光があるところには必然的に影は出来てしまうのだ。光が強ければ強いほど、影はくっきりと浮かび上がる。
 影なし男は闇に住む。

 この前、晶子が家に来た。そして何を思ったか急に僕のうちの大掃除を始めたのだ。
「前から思っていたのだけれど、この部屋は汚すぎる。裕作の掃除って物を捨てないでしょ。違うの、掃除とはものを捨てることをいうの。君ってそういうところ駄目だよね。」
 彼女はそう決め付けるとごみ袋を引っ張り出しいろいろなものを放り込み始めた。片方だけの靴下、古い雑誌、昔使ったテキスト、CD,膨大な量の文庫本、彼女はてきぱきと作業を続ける。ときどき申し訳程度に「これいるの?」と聞くが、返事を待たずに捨ててしまうので意味は無い。僕はあっけにとられて見ていた。いつも思うのだが何かをしているときの晶子は全くの無防備だ。黙々と、分類し、ごみ袋に放り込み、縛り上げてまとめていた。無駄が無い。
「ねえ、これ何?」
 気がつくと晶子はクッキーの箱をもっていた。そしてそれを振ってみる。かさかさと乾いた音がした。
「それ、手紙だよ。集めて入れてある。」
 彼女は一瞬怪訝そうな顔をした。確かにその量は普通の男が保管している手紙の量を大きく逸脱していた。そして彼女自身はどうひっくり返っても手紙を書くような人ではないのだ。彼女はまるで天敵を見るような目でその箱を見つめた。
「何、誰、これ。」
 明らかに不機嫌になりつつある。僕は慌てて説明した。
「昔の友達から送られてきてたんだ。一三歳の時から去年くらいまで続いたかな。親友だった。」
「だった?」
「最近手紙がこない。僕からも連絡してない。」
「なんで?」
 僕は黙って首を振った。そして箱の中から比較的古い手紙を取り出した。久々に見る手紙は端のほうが茶色く変色していた。朋広の角張った文字を見つめる。

「僕らはいい友達だったよ。高志と朋広。3人でいれば大概の事は上手く行った。僕が一人離れた後も、彼らのことをよく思い出した。朋広からの手紙は孤独な高校生活の支えの一つでもあった。」
 話しながら心の扉が開きそうになっているのを感じた。一年前の八月十五日、朋広からの最後の手紙を受け取ったとき僕は僕の心を固く封印した。此処に書かれている事は忘れなければならない。そのために三人を失うことになっても。
「どうしたの。」
 気がつくと晶子が僕の右手を握っていた。僕の体は夏だというのに冷え切っていた。
「どうもしない。ただね、一年位前一人友達が死んだんだ。そして僕らはふたりになった。それ以来連絡はとってない。」
 僕は大きく息を吐いた。晶子の温かみが心地よい。
「辛いの。」
「少しね。」
 笑いながら答えた。

 高志と朋広の話をしよう。
 中学校を卒業し二人は同じ高校に入った。地元の公立校。僕も其処にいたら通ったであろう学校だ。高志は中学校からの野球を続け、朋広は帰宅部になった。そのためかふたりの交友関係は次第にずれ、それぞれ違った友達と付き合いだした。しかしそれでもお互い親友だと信じていたし時々はどちらかの家で、ビール片手に語り合うこともあった。
「問題はだなぁ。」
 なれないお酒で酔っ払った高志が朋広に絡む。
「俺にはお前が何をしたいのか解からないんだよ。家にこもってわけのわからん本ばかり読んでいる。頭だって良かったのにこんな高校に来て何するつもりなんだ。」
 朋広はそれには答えずあたらしいCDをかけた。チャラが静かに歌いだす。高志は黙り込んでしまった。朋広は赤くなった目をこすりながら暫く聞き込む。
「なあ、高志。お前今大切なものってあるか?」
 短い沈黙の後、朋広がつぶやく。
「あるさ、お前だろ、野球の仲間、仁美、最近買ったMDコンポ、後、両親も大切かもなぁ。」
 高志は頭を振りながら答える。
「お前は如何なんだよ。」
「わからない。だから動けないでいる。昔は良かった。わかりやすかった。お前と裕作がいるだけでよかった。望めばなんでも手に入るような気がしてたし。でも今は。」
「何だか良くわからないな。好きな人でも出来たのか?」
 朋広は笑った。
「そうかも知れない。考えすぎてるのかもと思う。でもこれだけはいえる。成功する人は成功しようと思って成功するのだと思う。何かが欲しければそれを求めなくちゃいけない。俺は上手く求めることができないんだ。」
「ズボンを脱がなきゃセックスは出来ない。」
 高志はそういって笑った。
「そういうことか?」
「そういうことだな。」
 朋広もつられて笑う。そういえば俺は笑うことすら忘れていたな。こんなことじゃいけない。しっかりしなくては。
 自分でも言っていたように朋広はひどい混乱の中で高校生活をおくっていた。彼は人生を見失っていたし、人生から見失われていると感じていた。勉強は努力しなくても良く出来た。むしろ彼から言わせると出来ないのが不思議なくらいだった。勉強のいい点は答えが用意されている点だ。俺はただ求めればいい。それはひどく簡単なことに思えた。あんなものはただの作業だ。
 しかしそれでは退屈だった。彼の心は少しずつ冷えていく。彼はその隙間を埋めるように本を読み漁った。新しい考えに触れ、いろいろな物語に引き込まれた。物語の世界の中で彼は人生を取り戻そうとした。さまざまな胸の震えを味わい、涙を流した。
 しかしそれは彼の物語ではなかった。絶望的に。



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