○データベース・モデルへ
 これに対して、現在の「オタク」および「オタク系文化」のあり方は、すでに「物語消費」的なあり方ではない、とするのが、東の立場である。
 現在においてはその背景に「大きな物語」を要求することなく、無限に存在する断片的な情報単体とその情報が想起させるイメージだけを消費するというものだ。これを東は「データベース・モデル」と名づけている。(『動物化するポストモダン』51ページ図参照。下左図)

 具体的には、「猫耳」「鈴」「メイド服」などの分解された要素が、「萌え」要素として属性化されており、その記号を読み取ることにより、消費が成り立つとしているのだ。(『動物化するポストモダン』66ページ図参照。上右図)


 それらの要素は、データベース的な過去のイメージの累積によって成り立つ。その具体例として、『エヴァンゲリオン』の綾波レイの登場により、「無口」「青い髪」「白い肌」「神秘的能力」などの「萌え」要素が生まれたことを示している。
しかし、後発作品がエヴァンゲリオンのパロディとして、その「萌え」要素を採用しているという見方は、適切ではないと東はいう。むしろ、データベースの中身が書き換えられ、後発の作家がたとえ『エヴァンゲリオン』を「意識しない」としても、無意識にその「萌え」要素を採用しているというのだ。(『動物化するポストモダン』74ページ図参照。下図)

 「大きな物語」の喪失を埋め合わせようとするのではなく、無数のイメージを付与された断片を消費するというあり方。このようなあり方が、ポストモダン的であるということを東は述べている。
 冒頭の「萌え」とはなにか、という問いに戻るならば、「萌え」こそがオタクに象徴された日本社会のポストモダン的状況のキーとして結晶していると言えるのである。

○ おわりに

 筆者は「ボードリヤール」とか「ベンヤミン」とか、実はよくわかっていない。にもかかわらず、『動物化するポストモダン』にひきつけられたのは、「萌え」による消費行動をオタク(そして、背景の日本社会)に見ることが、日常体験的に納得するという一点につきる。
 映画、小説、音楽、ファッション、学問など私たちをとりまく世界はいまやこのような断片化され、記号化した状況で存在するということ。このことは、みななんとなく「わかっちゃっている」のではないだろうか?
 それにはもちろんマスメディアの影響もある。オウム真理教を筆頭に、「大きな物語」の喪失と記号化された社会、というものは、なにかにつけて出てくるテーマであるからだ。
ただし、筆者が「大きな物語の喪失」をめぐる言説について違和感を覚えるのは、そこにすでに「悪」という属性が付与されており、「大きな物語をいかに回復させるか」という前提が、暗黙であれ存在することである。
 むしろ、「大きな物語の喪失」が社会の常態と化しているのならば、その社会とは具体的にはどんな社会なのか、そしてその社会ではどのようなルールが求められ、どんな在り方が志向されるのか、を考えるほうが建設的なのではないか。
 『動物化するポストモダン』はこの意味において、われわれに社会の在り様を検討させる大きな手がかりとなるだろう。

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@東は、「コミック・アニメ・ゲーム・パーソナル・コンピュータ・SF・特撮・フィギュアそのほか、たがいに深く結びついた一群のサブカルチャー」を「オタク系文化」と総称している。
A具体的には、「設定」や「世界観」。

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