大学の娯楽中心型国際交流における問題
及川俊信

 筆者は、留学生との国際交流を好む性格である。
 国際交流サークルや個人チューターは学部生時代から経験し、今年度は文学部国際交流室チューターとして活動した。つまりは、一般の生徒よりも、留学生との国際交流の現場に触れる機会が多いと言える。
 ここではそうした経験をふまえ、問題を提起したいと思う。

 まず、大学における国際交流は、主に以下の場面でなされる。
 ・国際交流企画(パーティ、演奏会、旅行など)
 ・普段の大学生活
 ・国際交流室
 ・チューター作業(論文やレポートのチェックなど)

 外国人であるという理由から、留学生に対して積極的にアクセスを行なう日本人学生は、外国人と会話したい、外国の文化を体験したい、英語や中国語で話してみたい、などを主な動機として持つ。一方で、留学生は国際交流に対しておおむね受動的であり、日本人側が企画し提供する国際交流の機会を、取捨選択するスタイルを取る。彼らは日本人学生に対し、自国の文化紹介を行なう一方で日本語の学習を中心とした大学生活でのサポートを求める。

 
すなわち、大学における国際交流では、留学生が実質的な助力を日本人学生に求める一方、日本人学生は「気軽な異文化体験」という娯楽を主な目的とするという、目的の違いが存在するのである。
 問題なのは、日本人学生の多くが娯楽中心型の国際交流に終始し、それ以上の目的を持たないことである。

以下に問題の具体例をあげる。



国際交流パーティーの場合

 主に5月と10月、各学部や国際交流センター、ボランティア団体などで、各国の新入留学生を歓迎するための国際交流パーティーが開催される。日本人学生も多く参加し、彼らとの初めての国際交流を行なうのだが、ここでは娯楽中心型国際交流ゆえの問題が具体的な形となって複数発生するのである。

1)国際交流の格差の発生
 多くの日本人学生は留学生との交流に際し、留学生に対して人種・国籍・民族によるランチバイキングに似た選択がなされる。結果、中国・韓国・台湾・欧米の留学生は、日本人学生との交流に比較的事欠かない一方、それ以外の留学生、特に東南アジアや中東の留学生は日本人学生から孤立する場合がほとんどである。この孤立はパーティの後も同様で、彼らが日本人学生と一緒に食事や会話を楽しむ姿はほとんど見られない。

2)日本語を話す留学生の優遇
 日本人学生との交流の機会は、本来なら日本語をまだうまく話せない留学生に対し、優先して与えられるべきなのだが、日本人学生は少数を除いて苦手な英会話をできる限り避ける。そのため、日本語が堪能な留学生ほど交流の機会に恵まれるという、本来望ましいはずの状況と反対になる場合が多い。

3)文化的宗教的配慮の欠如
 パーティの席では、ムスリムの留学生たちが食べ物を前に戸惑う姿をよく見かける。同じ大皿に、豚肉料理とそうでないものを平然と並べる、あるいは、どれが豚肉料理かわからない、といったことが余りに多いのだ。豚肉や酒を食卓ごとに分けていても、彼らはスナック菓子の食品添加物に至るまで配慮を求めるため、簡単に食物を口にしようとはしない。

 これらは、日本人学生が国際交流を娯楽以上のものとして考えないため、文化や言語、人種の異なる外国人留学生を公平に歓迎するという概念が不足していることを、裏づけるものである。食物の宗教的配慮については、その禁忌がほとんど存在しない日本人にとって、極めて煩雑で大変な作業である。しかし、そこまで徹底してはじめて、国際交流の中に信頼に基づくコミュニケーションが形成されるのである。

日常会話の場合

 大学生活における国際交流は、日常の大学生活での会話が時間的にも内容的にも大きなウエイトを占める。ここでも、日本人学生が娯楽中心型の国際交流に終始する結果、以下の問題を生じている。

1)「日本人」という自覚の欠如
 日本人学生が留学生を外国人として見ると同時に、留学生もまた日本人学生を日本人の一人として見、そして観察しているのである。すなわち国際交流において、日本人学生は個人としての交流と、日本人としての交流が同時になされているのである。
 国際交流サークルなどでは、「私を国としてでなく、私という個人で見てほしい」という主張を、留学生からも日本人学生からもよく耳にする。しかし、ここで彼らの言う「国」は、単純に国家を指すものであり、筆者が言う「国」や「日本人」は、個人を形成する民族、宗教、社会、習慣など文化的背景の総合を指すものである。
 日本人学生の多くは、こうした「日本人」というスケールでの自覚を回避し安易な国際交流を試みるが、次のような障害を生じているのである。

2)日本の文化を説明しようとしない
 日本人学生は時に、留学生に日本文化を説明するが、寿司の食べ方や観光スポットなど娯楽的な情報は提供しても日本人の思考や習慣など突っ込んだ内容については安易な説明に終始し、かえって偏見を増幅している場合が多い。これは、日本の文化を積極的に学ぼうとする留学生にとっては、大きな問題のひとつと言える。
 例として、日本の捕鯨については欧米や中国では一般に、文明的に残虐な行為でかつ自然生態系を破壊するものであるという誤解があるが、こうした誤解に対して日本人として責任をもって説明しようとする学生はまれである。また、日本の宗教については、複数の宗教要素を取り入れていることから、「現世利益的で適当」という単純すぎる見解がなされがちだが、多くの日本人学生もそれをそのまま肯定してしまう。さらに、日本人は曖昧で物事をはっきりと言わない、という留学生が一般的に抱くコミュニケーションの困難についても、日本人学生は留学生に同情するだけで、文化的背景や意味を説明しない場合がほとんどである。
 国際交流は異文化体験の場である。それは逆を言えば、自国の文化が一般的なものでなく固有性を持つことを、客観的に認識できる場でもある。日本の文化や習慣に対して何らの説明も試みないことは、そうした好機を逃すものといえるだろう。

3)国際交流の将来的な展望の欠如
 留学生は将来、多くが各国で日本との関係に従事する重要な職業に就く。そして、この大学での留学生活で培った、日本人との国際交流の経験がさまざまに反映されることだろう。自分達の大学での国際交流が、そうした将来的な国際関係にも反映することを、日本人学生は念頭に置いたほうが良い。

 個人的経験から言えば、大学での国際交流を娯楽中心のそれから、異文化相互理解へと発展させようとした場合、何度も文化コードの相違によるコミュニケーションの大きな障壁を経験する。文化コードの相違から生じるギャップは、個人的性格の相違によるそれとは比較にならないものである。しかし、互いの違いを知り、コミュニケーションのスタイルを模索し合うことは、将来的な国際理解や友好においても、貴重な経験になると考えるのである。



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