『サイナラ映画祭』公式サイト 
http://sainaraeiga.tripod.co.jp/
 


Introduction
サイナラ映画祭とは? 高橋 D

去る11月2,3,4千葉大学西千葉キャンパスにおいて『サイナラ映画祭』と銘打たれたイベントが繰り広げられた。イベントはまさにディープ、且イル(ill)なもので、寺山修司の映像作品『書を捨てよ街へ出よう』を皮切りに、松井良彦監督『追悼のざわめき』『豚鶏心中』を上映。3日には松井監督が来場し主催中沢と対談。最終日には主催者が多大なリスペクトを奉げるメディアレイピスト宇川直宏氏が来場し、持参のカルト映像を駆使し講義を行った。
私はこのイベントを注視せざるを得なかった。その注視はこのイベントを通して浮かび上がってきた前景と後景の間の距離を探るためにあった。
前景として突出した『サイナラ映画祭』と後景として霞んだ『千葉大祭』との間の距離を。
そもそも千葉大祭とは何であろう?
私にとっての千葉大祭といえば、「空っぽ」。
いつものように体育会系サークルはすることもなく屋台を出し、手製の特設舞台ではコピーバンドがまばらな観客の前で奇声を上げ、総合校舎の割り振られた部屋の中で文科系サークルひっそりと蠢く、そんなお寒い状況。
それが今までの千葉大祭の概念であり、全体として見ればそれは今年も変わり無かったように思う。
例年と変わった点がただ一つ。『サイナラ映画祭』の開催であり、皮肉にもそれによって千葉大祭の空虚さは彩色化された。
千葉大祭の空虚さ、それは欲望と社会性の欠如にある。
『サイナラ映画祭』の成り立ちはディープでイルな主催中沢の欲望に起因する。
天井桟敷主催者寺山修司がかろうじてメジャーな存在かもしれないが(彼自身はアングラ芝居の急先鋒であったが)、松井良彦監督、宇川直宏氏共に私自身このイベントで初めて耳にした名前であり、松井監督作品はビデオにもなっていない。まるで「公共性」からは外れているテーマだ。しかし、我々個々の人格内において公共性など二の次なはずだ。競馬大好き、女風呂も覗く寺山の欲望、作品中で傷痍軍人を唐突に殴り飛ばし、人形の女性器に殺した人間の内臓を詰め込む松井監督の欲望、メディアをミックス、レイプし、アナーキーに漂い続ける宇川氏の欲望、そしてそれら偉大な先人が持つ、群集の1km先を駆け抜けるエッジ性にリスペクトを奉ぐ『サイナラ映画祭』主催中沢の欲望、彼らは自らの欲望を曝け出している。自分の中にある、他人とはどうしても相容れないものを。
同時に中沢は欲望の発露を「イベント」として捉える事によって戦略的に環境を整備した。イベントの成功とは社会的常識&資本の投下・回収という原理に照らし合わせてみればそれは集客数に他ならない。自らの欲望を把握し、上映作品を選別する、ホームページを制作し、チケットをぴあに委託する、ゲストに公演を依頼し、チラシを刷る。チラシを都内千葉の映画館に置かせてもらい、各種ホームページに書き込みする…万策尽くした。2001年秋千葉大学構内を歩けば必ず『サイナラ映画祭』の看板、チラシを目にしたはず。そのチラシに中沢はこう記している。
「当日、来場者の人数が教室の収容人数を大幅に超えた場合は入場を制限するかもしれません。混雑が予想されるため前売りチケットを購入される事をおすすめします」
これは前売りチケットを委託したためのブラフではなく、彼は本当に当日の混雑を心配していた。

…しかし、客は予想の半分も来なかった。

この不振をホームページの掲示板で中沢はこう述懐している。
「もちろん私はこういう企画においても内容の充実のみならず経済的成功をおさめることでより意味を持つと考えているのですが,決して興行的には成功とは言えませんでした.もしかしたら本映画祭の最大の敵は人の無関心であったのかもしれません.そこに訴えかけることができなかったことは我々の力不足です.
(ですが,これだけの内容をもってしても興味を持てないような千葉大生やとくに表現することを志している若者は,もはや自分に必要な情報でさえ得ようとすることを怠っている人たちではないのでしょうか. 確かに今回上映した映画は簡単に理解できて感動できるような映画ではなく,脳が疲れまくるようなものばかりで,屋台でお好み焼きを売ってその金で打ち上げする方が楽で楽しいかもしれないけど,その後の自分の人生をより深く考えることに有益であるのはどちらかといえばその答えは明白な気がします.)」(
http://sainaraeiga.tripod.co.jp/

『サイナラ映画祭』とは中沢の独りよがりで、杜撰な営業体制により破綻すべくして破綻したイベントだったのであろうか?
違う。運営方はベスト。
あるいは誰でもやれるありきたりな企画だったのであろうか?
違う。一日一度も映像に触れない人などほとんどいない21世紀日本で、映像という概念がどう移り変わっていくのか、だれしも興味がある筈だ。
では、なぜ人は来なかったのか? 

私はそこが知りたいと思った。

このインタビューはサイナラ映画祭の成り立ちについて、サイナラ映画祭の目論見について、そして主催中沢が考える21世紀の映像表現の行く末について語ったインタビューである。

このインタビュー記事をご覧になった方が、この記事を肥しにして新たなイベントに役立ててくれるよう望む。
  


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