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 ほんの少しだけ開いていた障子の隙間から朝の陽光が浩々と差し込んでくる。
 その光が顔に差し掛かって、葵彰介はようやく眼を覚ました。
「まだ六時じゃないか……」
 葵は寝ぼけた声でそう呟くと障子をピシャリと閉めて再び布団の中に潜り込んだ。
 それも無理はなかった。ここ二、三日は仕事の関係で昼となく夜となく四方を歩き回っていたため、すでに寝不足になっていた。だからこそ約一ヶ月半ぶりに丸一日休める、今日くらいは昼過ぎまで寝ていようと心に決めていのだ。それなのに、何だかんだで四時頃まで寝付けなかったから、実質まだ二時間も寝ていないだろう。

 少し経ってようやく心地よい睡魔が彼を襲ってきた。徐々に意識が白濁としていく―その途端、彼の睡魔を吹き飛ばすほど大きなメロディが枕下で響いた。「何だよ、朝っぱらから……」
 葵は誰に言うともなく文句を口にしながら引っ手繰るような手つきで携帯を取った。
「よお、彰介。すまないな、ぐっすり眠ってるとこ起こしちまって」
 言葉とは裏腹に笑いを噛み殺したかのような声が受話器越しに聞こえてくる。
 声の主は水上耕太に違いなかった。葵とは同期で年も近いため、殺伐とした雰囲気の
強い職場でも数少ない親友と呼べる仲の一人だ。
「耕太か…おい、どういう了見だよ。こんな朝っぱらから僕を叩き起こして……」
「いいから起きろ。仕事だ」
「…………は? ……」
 葵はひどく間の抜けた返事をしてしまい、大親友の言葉を疑った。今日は彼にとって実に一ヶ月半ぶりの非番、のはずである。
 仕事柄、葵たちは一つの仕事に取り掛かるとその仕事が終わるまでの一週間から一ヶ月くらいの間休日とは無縁の生活を送らざるを得ないのだ。
 それなのに彼は二つの仕事を休みなしで取り掛かることを余儀なくされた為にここ二、三日は身も心も使い古されたぼろ雑巾のようにボロボロになっていたのだ。
 今日ぐらい休ませてもらわないことには正直割に合わないし、身体だって保たない。
「おいおい、耕太。冗談だろ? まさかお前忘れてるんじゃないだろうな? 僕がここ一ヶ月以上もずっと休みなしで頑張ってたこと……」
 おどけたような、しかし、どこか本気で憤ってるよう口調で問い掛けながら葵は水上の次の言葉をじっと待った。もし彼が忘れているのでなければ、水上が非番の葵に、しかも朝早くから電話してくることなど、よほどのことでない限りあるはずがないことだった。
 そしてこれが葵を不安にさせる一番の理由だが――彼の知っている水上耕太という男はこういう類いの嫌がらせを決してしない男なのだ。
「……あのなぁ。そりゃあ俺だって仕事で止むを得ない場合には嘘もつくさ。でも、こんな朝っぱらから冗談でお前を起こすわけないだろ」
 電話越しに少し気分を害した声が飛んでくる。
「でも……いくら何でも僕だって……」
「そういうことはこれから当人と掛け合ってくれ」
 葵は彼にしては珍しく弱音を吐いてみたのだが、水上が取り付くしまもなくピシャリとそう言ってのけたので、葵は思わず舌打ちをしていた。
向こうでは何やら携帯電話を誰かに手渡しているような気配がしていた。当人、という言葉の意味を察して、彼は無意識の内に布団の中の体が強張っていた。
そして水上の野太い声とは対照的な女性の美しい声が葵の耳を打った。
「彰介。もう目は覚めていますね」
 それは単なる確認でなく、断定的で命令そのものにも思えた。
「はい、はい、もう起きてますよ、姉さん……あ、いや、初音チーフ……」
 葵は少し皮肉めいてそう言ってやったのだが、彼女は意に返してもいないようだった。
「そう、今の私はあなたの姉である前に上司なの。返事は一回でいいといつも言ってるはずよ。そのことを知らないとは―少なくともあなたに限っては―言わせないわよ」
 葵は思わず電話を取り落としそうになった。
 こうした口答え、職務の僅かな遅滞、怠慢。そうした些細なことさえも、彼女、葵初音は絶対に許せない女性だったことをやっと思い出したのだ。
生まれた瞬間から側にいる葵には痛いほど身に染みていることだというのに。
 それでもせっかくの休暇をあっさりと反故にし、せっかくの朝寝坊も電話の音で起こされた身にとっては皮肉の一つも思わず口を吐いて出てしまったのだ。
――これでまた減俸だろうな……。
 葵は心の中で思わず嘆息した。半年ほど前にも同じようなやり取りを理由に減俸されたことは未だに記憶に新しかったので、なおさらだった。
「まあ今回は見逃しましょう……ねぇ、聞いている、彰介?」
「…………あ、はい。あの、それでチーフ。いったい僕に何の……」
 葵は減俸されないことに安堵して僅かばかり声が弾んだものの、すぐに不安になって声を徐々に小さくしていった。何かとんでもない事を頼まれるような嫌な予感がしたのだ。
「あなたのことだから当然まだ新聞なんて読んでいないわね?」
 弟の性格も行いも手に取るように分かるくせに、初音はいちいち念を押した。もっとも今回に限っては弟へ皮肉を言い返したというだけだったかもしれない。
「後ででいいから、必ず新聞に目を通しておいて。実は例の事件で第三の被害者が出たの。そこで彰介、あなたには実働調査班への異動を命じます。そして第三の事件を中心にして一連の事件の究明に取り組んでもらいます」
「僕が? あの事件に?」
 それは職場でも噂になっている事件だった。
 ほぼ一ヶ月ごとに起こっている殺人事件で被害者の内臓は鋭利な刃物で切り裂かれたような形状をしているにも関わらず、それらしい外傷がまったく見当たらないという不思議な傷が死因になっているという極めて特異な事件だ。
「僕は今まで所内での情報分析しかやっていなかったんだけど、それでもいいですね? 急に聞き込みとかやれって言ったって……」
 その事件は葵にとっても思い入れの強い事件だった。だが、自分の手に負える事件だとは到底思えないという想いも強かったのだ。
「そのことについてはもう手を打ってあります。今日、明日は松枝に付いて仕事を覚えなさい。私が一日で覚えたのですから、あなたも二日あれば足りるはずです」
 初音はさらりとそう言ってのけたが、電話の向こうの葵はもちろん、初音の側で二人のやり取りを聞いていた水上すら思わず言葉を失ってしまう。
 聞き込みのコツなど一朝一夕で学べるものではない。まして今回のような特殊な殺人事件では聞き出した情報の取捨選択などは現場での経験則、つまり勘に拠るところが多いということは疑いようがないはずなのに。
 初音自身は現場でのずば抜けた実績と類い稀な頭脳から、一部の上層部の反対にあいながらも若干二五歳の若さでチーフ職に就いた、文字通り超がつくほどの天才である。しかもチーフとしても統率力と人材登用のセンスを遺憾なく発揮して職場全体の力をかなり底上げすることにも貢献しており、彼女のチーフ抜擢に誰も異議を差し挟まないのも当たり前だった。
 そうした天才と同じ尺度で測られて、彼ももさすがに不平を言いそうになったものの、彼女の迫力に気おされて押し黙ったままだった。

 もっとも葵自身も自分の置かれた状況を的確に判断できる頭脳を持ち合せていたから、初音が次に口を開く時にはすでに自分の立場を完全に把握していた。
 彼女が葵の先生役として指名した松枝ちなみは、一年前まで葵の同僚だった女性だ。
 今も葵がいる情報分析班から、彼女のたっての希望もあって昨年ようやく実働調査班への異動が決まったのだが、移ってからも確実に実績を挙げているとは聞いていた。女傑とでも言うような姉御肌の人だったから、葵も同じ班にいた頃はかなり世話になっている。
 そう言う意味では、葵の『教育』にはうってつけの人材といえるかもしれなかった。
「彰介。質問がないならば、あなたは身支度を整えて、松枝を待ちなさい。その間に新聞でも読んで置くように。松枝はあと三十分もすればお前のところに着くでしょう」
「了解しました、チーフ」
 葵が出来る限り落ち着いた口調で、そう答えると、初音はほとんど間を置かずに電話を切った。葵を覆っていた緊迫とした空気がスーッと霧散していく。
 こうした感覚を持つようになったのはいつ頃からだろうか。
 葵はあたりの空気が弛緩していくのを感じながら茫漠とそんなことを考えていた。
そもそも初音は葵にとって実の姉であり、生まれた頃から彼女の側で過ごしてきた。小さい頃は姉の後ろについて回って一緒に遊んでもらったし、もうすでにあやふやになってしまったものの、可愛がられたような記憶もある。
 初音を女性として意識し、少しずつ遠ざかり始めたのは中学生の頃だった気がする。
でも、あの時には畏れを抱くような存在にはなっていなかった。
もっとも、かっこいい姉に憧れ、姉のようになりたいと常々思っていたが。ここまで畏怖するようになったのは、ここに入ってきてからだろう。
「…………LOS……か」
葵はLOSに就職してから、姉がごくごくかいつまんで話していた『活躍』がどれほどの実績だったかを知って、自分との才能の差をつくづく実感した。そしてその頃から、弟としての憧憬ではなく、本当の意味で姉を畏怖するようになったのだ。
――LOS。
それは多国籍企業KPCの中において、さまざまな情報収集を行う重要部門の一つだ。特にその情報収集力の高さゆえに怪事件等の調査までも国から請け負っているのだから、自分でもよくこんな企業に入れたものだと思う。
葵はふと部屋の柱時計に目をやった。すでに電話を切ってから十分近く経っている。
彼は慌てて布団から跳ね起きると、新聞を読みながら簡素な朝食を胃に流し込んだ。
そして新聞にざっと目を通し終わるとここ数日間ずっと着込んでいるために襟がヨレヨレになってきている紺の背広に袖を通し、洗面所でてきぱきと身支度をする。
毎日の習慣からか、葵は十五分足らずでそうしたことをやってのけると、松枝が来るまでコーヒーをすすり始めた。


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