チャイムが鳴ったのは、コーヒーを飲み終わってから十分ほど経ってからだった。
「おはよう、葵くん」
松枝は少し疲れた顔をしていた。ここ数日間、今回の事件に振り回されて生活が不規則になってきているのだろう――もっとも葵は葵で自分の顔色がひどく悪いことを洗面所で見て良く知っていたのだが。
「……新聞、読んだんでしょ。また似たような事件だった。実を言うと、あの事件のおかげで昨日も県警の現場検証に付き合わされて、一睡もしてないんだ」
低く美しい松枝の声は、咽が涸れてしゃがれ声になってしまっていた。そして同様に、彼女の美しさよりも凛々しさの際立つ顔も疲れからかツヤもない。
「松枝先輩、コーヒー飲んでいく時間くらいはありますか? とっておきのを作ってたんですけど、現状でも話しながら飲んでいきませんか?」
葵はコーヒーを沸かしながらそう提案した。挽きたてのコーヒーの何とも香ばしい匂いが辺りを覆い尽くさんとしていた。
「残念だけど、これからすぐに井代署に行かないといけないんだ。九時に待ち合わせてるから、今からでもギリギリかもしれないのよ。それまでの道筋で話すわ」
素っ気ない言葉に葵は火を消して、コーヒーをカップに入れ始めた。
「あの、僕も車で行ったほうがいいですか?」
「そりゃあ、その方がいいんだろうけどね……でも、私の説明を聞かないで現場に行ったところで足手まといにしかならないから。少なくとも今日一日は私に付いて来ること。そもそもチーフにもそう言われたんでしょ?」
葵が頷くのを見るが早いか、彼女はすでに車の方へ戻り始めていた。
彼は生温かいコーヒーを慌てて飲み干すと、松枝を追いかけた。
「新聞に書いてある通り、殺されたのは川部秋穂って女子高生よ。死因らしいものは見当たらなかったから何かの発作とかって可能性も捨てられなかったんだけど……」
「病院で見た限り、例の傷跡があったと。そういうことなんですね?」
「そういうこと。これで三件目……まったく、木戸さんと私は面目丸つぶれだよ」
松枝が肩をすくめるのを見て、葵は黙り込んだ。
木戸さん――木戸沢悠也は五年近くLOSで働いている現メンバーでも有数の実力者なのだが、その彼をして一連の事件の最初を受け持った時、頭をひねったくらいだった。
そんな事件を葵が解決できるなどとチーフは本当に考えているのだろうか?
そこまで考えて、彼はにわかに強烈なプレッシャーに襲われたのである。
「もう、そんなに顔を強張らせないの。いくらあのチーフでも今回葵くんが大活躍できるなんて思ってないよ、きっと」
葵が深刻そうな顔をする時はたいてい物事を難しく考えすぎている時だった。一年前までは葵と同僚だっただけに、葵のそうした癖は良く覚えているらしい。
「……そう、ですよね。それに――」
葵はそこまで言って口ごもると悔しそうに唇を噛み締めた。
松枝は彼女が良く知った真剣な、自信に満ちた眼差しに目をやって、どこかほっとしたような気がした。
「それで、殺害現場や現場検証のこととか知りたいんですけど」
「本当にヒドイもんよ……殺された女子高生の家のすぐ近く」
彼女らしくなく声を落とし、答えを返してきた。葵は息を呑み、唇を噛み締めた。
「確かにひどい話ですね。でも、どうして家族は気付けなかったんです? 人里離れた場所にあるっていうのならまだしも、井代で起きたんでしょう? あの辺りはそれなりに開けた町だし、近くに住宅がまったくなかったわけじゃないはずです」
質問を畳み掛けられて松枝は一瞬面食らったが、すぐに何からに思い当たったようで彼女の口元に笑みが浮かんだ。
「……そうか、葵くんは少し前まであそこに住んでたっけ」
「もう二年前です。少し前、なんかじゃありません。それに僕は北大の辺りに住んでたわけじゃないんですよ?」
葵は苦笑しながらピシャリと即答した。彼の母校である北葉大学は井代市と隣の佐崎市にまたがっている全国区の大学で、『北大』という略称で呼ばれていた。
「それで話を戻すけど、その娘の殺された辺りは空き地になっていて、その娘の家以外には二、三軒しか建っていなかったわ」
松枝は口で言うほどに物寂しい場所ではなかったように思っていた。こじんまりした家が川沿いに並んで建っていたのだが、そのうちの一軒のすぐ手前に遺体があったのだから、少女が大声で悲鳴を挙げていたら誰かに届いていたのは間違いなかったのだ。
「時間が時間だったし、井代署もその辺りの人へ聞き込みはしてませんよね?」
「おそらくね。まあ、野次馬で家から出てきた人や一緒に住んでた両親とかは別かもしれないけど。それにあの時は暗くて現場検証もちゃんとは出来なかったろうからこれから本格的に再開するんじゃないかな」
「ふぅ……だいたい感じは掴めましたけど松枝先輩は二番目の事件の時に遺体の死因がどういう傷だったかとか見てるんですよね?」
「……私はまだ今度の娘のことは知らないから何とも言えないわね。でも、どうやら同じらしいわよ。柴峰さんからの電話だから当てになるか分からないけど」
葵は耳慣れない名前を聞いて眉間に皺を寄せる。
「ほら、先輩たちがよく零してるでしょ? 井代の名物警部よ。中年のオッサンにしてはそこそこ頭が切れるようだけど、思い込みも激しいから大した人じゃないわ」
小馬鹿にするように彼女は鼻で笑うと彼女は運転に集中し始めた。こうして何かに没頭している時に邪魔をすることを松枝は極度に嫌うので、葵はそれこそ息を止めるようにして、松枝のハンドルさばきを見ていた。一年前、情報整理班の一員であり葵の同僚だった頃は彼女はまだ免許を持っていなかったのだ。免許を取ってからまだ半年くらいのはずなのに彼女の腕はすでに葵を凌駕しているように思えた。
「うまいでしょ? チーフのおかげでほとんど毎日乗っているからね」
葵は一瞬自分への当てつけかと思って内心むっとしたものの、松枝に限ってそんなことしそうにないと思い直した。松枝ちなみは歯に衣着せぬ物言いは多々あっても、媚びへつらったり嫌味がすぎる話を軽蔑していることを思い出したのだ。
その時だった。
松枝の携帯がけたたましく鳴り出した。
「……まったく、こっちは運転してるのに。葵くん、電話に出て。私の耳元に持って来てくれる? そうすれば運転中でも何とか話せるからさ」
葵は一瞬顔を引きつらせたが、液晶画面に表示されている発信者の名前を見て、彼女がどうしても電話に出たいわけが分かった。
「柴峰警部からですけど」
「やっぱりね。ねぇ、警部! 今井代に向かっているところなんですけど」
「そうか。それは悪いことしたな」
「……警部、どういうこと?」
柴峰の話し声が聞こえなかった葵も、松枝の抑えた口調に嫌な予感を感じずにはいられなかった。いや、寒気を感じたというべきだろうか。
「九時に井代署、という約束だったが、北大付属病院の方で記者会見の予定が組まれてしまっていてな。主だった面々はそっちにいる」
「へぇ、私との約束は反故にする気だったんだんでしょ? 最初からさ」
「何を人聞きの悪い。記者会見の際に我々の捜査の結果を伝える。場所が変わっただけだし、そのことをこうして電話したじゃないか?」
柴峰は苛立った様子で言い返してきた。だがそうした態度を取るのは図星だったからだということを松枝はよく分かっていたから、さらに言い募った。
「なら、何で今ごろ電話してきたのかしら? 記者会見はどうせ死体を病院に運んだ頃からだいたいの時間は決まってたはずよ」
柴峰は反論もせず、電話を切ることもせず、黙って聞いていた。その沈黙が肯定を意味しているということがまったく事情を知らない葵にも感じ取れるほど露骨なものだった。
「だいたい今何時だと思っているの? もう九時までに十五分もないじゃない。それに北大付属は井代署から十キロ以上離れてるのよ!」
葵は話の内容を察すると同時に激しい憤りを感じていた。国が委託しているとはいえLOSが警察とほぼ同等の権限を有していることを県警が忌み嫌っているという話は以前から聞いていたが、これほど陰湿な嫌がらせを受けていようとは考えていなかったのだ。
だがすぐ側で非難の声を挙げようとした葵の口を松枝が素早く塞いだ。
「ではこれから向かいますが、間に合わないかもしれませんから。その際には我々にも多少なりとも情報の提供をお願いします」
機械のように抑揚のない声で松枝はそう言うと一方的に電話を切った。葵の顔が思わず引きつり、表情が曇った。
「まったく、あのオッサンは! 葵くん、しっかり掴まってなさいよ。飛ばすから」
彼女の顔付きがギュッと引き締まり、ハンドルを握る手が汗ばむ。頭に血が上っていて周りが見えなくなっている証拠だった。
――ああ、交通事故とか起こさなければいいんだけど……。
情報処理班にいた時にも実働部隊がしっかりと報告してこないことに苛立って、思わず手に持っていた缶コーヒーを握り潰してしまうという伝説を作った女性である。
感情的になると何をやらかすか分からない怖さがあった。
実際に車の速度は道路の制限速度を遥かに超えたものだった。おかげでシートベルトでしっかりと体を固定しているにも関わらず、前につんのめりそうになってしまうほどの急ブレーキも多々あった。事故を起こさなかったのは別れ道がほとんどなく、信号と信号の間隔が広い直線道路を走ってきたからだろう。
そのおかげで記者会見の最後の五分間くらいに辛うじて間に合ったのだから、葵は松枝の走りに文句をつけることができなかった。
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