「葵くん、ほらボーッとしてない。早く柴峰さんのところに行くよ」
 葵は急に腕を引っ張られて慌てて我に返った。まるで母親に連れられている子供のようで彼は恥ずかしくなったが、松枝と並んで柴峰に向かっていった。
「松枝くんか。君には本当にすまないことをした。まあ、何とか間に合ったようだから、ほっとしてはいるのだが」
 そう言う彼の眼は気だるそうな光を湛えていた。同情する気など毛頭ないことは明白だったが、そうしたことを口に出す者などその場には一人もいなかった。

「それで、あの後何か真新しい発見はありましたか?」
「まあ、あいつらの質問でも予想はつくと思うが」
 柴峰はため息を吐きながら肩をすくめた。
「やはり、内臓には例の裂傷があったよ」
 予期していたことではあったろう。だがそれでも松枝の顔には苦渋が広がっていった。
「それで、君の隣にいるのもLOSのメンバーなんだな? 自己紹介が遅れた。俺が今度の連続殺人の本部長、柴峰哲雄だ」
 品定めするように葵を見ていた柴峰が鷹揚に言った。
「今日からLOSの実働調査班に配属された葵彰介です」
 軽く会釈をしながら葵が手短に自己紹介をする。そして彼も柴峰や彼の周りに集まった警察の面々に視線を投げかける。
「あの、葵くんに例の裂傷を見せておきたいんですけど」
 ほんの少し、辺りの空気が寒くなり始めた瞬間に、松枝が警部に声をかけた。
「そうか、君はまだ見たことがないのか……よく考えてみれば当たり前か」
「写真では何度となく見せてもらったんですけどね」
「実物を見とくに越したことはない。よし、俺について来い」
 柴峰は病院の受付で何事か話すと二人が追いかけてくるのを確かめることなくエレベーターの方へ歩いていく。少々早歩きなことも手伝って葵はかなり距離を離され、松枝が思わず声を張り上げそうになってしまった。
「おい、一つ忠告しておくが、情報ってのは自分で確かめたものじゃなきゃ使い物にならないからな。写真とは全然違うぞ」
 情報収集に生き場所を見出してきた葵にとっては侮蔑とも取れる発言だったが、葵は鼻白むこともなくエレベーターの箱の中ではずっと黙り込んでいた。

 ドアが開くとヒンヤリとした空気が葵たちを包み込んだ。
「柴峰さんですか。まったく、今度は何の用です?」
 非常口から白衣を来た中年男性が顔を出した。目の下にはくまができていた。ほとんど寝てないからなのだが、葵はそこまで知る由もなかった。
「河内さん、どうもすいません。葵って、新人の彼に例の『死因』を見せておこうと思ったんです。それに私もどういう大きさなのかとか知っておきたかったもので」
 松枝は面識があるらしく柴峰が声を掛ける前に河内に向かって頭を下げていた。
「葵くん、ねぇ。どういう傷なのか、知っているかな?」
「一応写真では見たことがありますが……」
「死体を見たことは? ひょっとすると新人だから…」
「ありますよ。新人って言っても転属して、実働部隊に加わっただけですから」
「そうか。実は初めて死体を見る者にはあれは刺激が強すぎるんだ。前の事件の時、解剖にインターンを何人か使ってみたのだが、一人を除いて皆吐いておったくらいだからな」
 葵はその言葉に少し不安になったが、できるだけ顔には出さないように努めた。
「葵くんは強いから。インターンなんかと一緒にされちゃ困るわね」
松枝がそう言い返して葵と河内は苦笑したが、柴峰だけはまったく意に返さず、無言で霊安室の扉を押し開けた。
「ほら、ここだ。ここにガイシャが眠ってる。見てみな」
 河内、松枝に続き最後に足を踏み入れた葵へ柴峰が顎でしゃくった。
 河内は遺体の側で葵を招き寄せながら、無言のまま胸の辺りまでかけられている真っ白なシーツを勢いよく払いのける。
 まだ少し幼さが残る、整った顔立ちの少女が仰向けになって横たわっていた。しっかりと閉じられた瞼は、どこか眠っているような印象すら与えていたが、シーツを剥ぎ取られて印象がガラリと変わった。
 彼女の腹の辺りが切り開かれ、内臓の辺りに鋭い刃物で切り裂かれたかのような傷跡が
眠っているような彼女を物言わぬ無惨な骸へと変えたのだ。
「これが…………例の、傷……」
 葵は最後まで言うことが出来なかった。
確かに今まで聞いてきた話通りの傷跡だった。しかし、葵はその切り口が想像以上に滑らかなことに驚きを隠し得なかったのだ。
――皮膚には刃物の跡がなかった? これで? とてもじゃないが考えられない。
葵は哀れな少女を見て心が湧き立っていくのを感じた。何とかして彼女の無念を晴らしてやりたいという情熱とでもいうべきか。
「松枝先輩、何とかして犯人を探し出しましょう。次の犠牲者を出す前に」
 その口調は彼らしくなく、どこか熱っぽかった。
「そんなの当たり前のことでしょ? まあ、私は一人、無駄な犠牲者を出してしまったんだけど……でも、いくら何でも二度の失敗はあり得ないわ」
 彼女は勝ち気にそう言うと口元に笑みを浮かべた。
「まだ、手がかりらしいものは何一つ見つかってないんですよね?」
「当たり前だ。あればとっくに話しとる。そもそも現在の技術では内臓のみを切り裂くことのできるメスなどありえない。むしろこっちが教えて欲しいくらいだよ。技術力という点では君たちは最先端を行っているはずだろう?」
「KPCは確かに技術水準の高さでは世界トップですが、それはメディア関連においてです。そうした道具に関しての技術はありません」
 松枝の返事は素っ気なかった。
 LOSはKPCの一つの機関に過ぎない。それは紛れもない事実である。
そしてウェブ、出版、放送といった様々なメディアで高いシェアを誇るこの多国籍企業は様々な分野で事業を興しているが、今のところ医者用のメスやプロアスリート用のスポーツ用品などの専門的な道具にはまだ手を出していないのである。
もっともいずれはそうしたことも手がけていくのだろうが。
「あの、一応聞いておきたいんですが。河内さん、あの傷はメスのような鋭い刃物の傷としか考えられないんですか? 畑が違うのではっきりとは言えないんですが、何らかの薬品で内臓が溶けたとか、そういうことは考えられないんですか?」
「可能性、という点ではそうしたことも考えられなくはありません。ですが、そうした薬品の話は今まで聞いたことがないですな」
「同感ね。葵くん、発想は面白いんだけどそうしたことなら木戸さんも言ってたわ」
 葵は少し残念そうにうつむきかけたが、すぐに顔をあげた。
「でももし刃物の傷じゃないとしたら、内臓の中から傷ついたとしか考えられなくなるんですよ? 一応そうした観点から情報を集めておいてもらえませんか」
 葵が河内を説得しているのを見て、柴峰が呆れたようにため息を吐いている。
「まあ、あなたの気持ちも分からなくもありませんから、一応調べておきますが――あまり期待しないでくださいね?」
 河内は苦笑しながらそう言った。葵は力強く頷いた。

 <<back<>next>>