『///////////小嶋 洋輔///////////
異性愛/溝/モノローグ
///////////小嶋 洋輔///////////』
発端としての主人公の恐怖
「「深い溝」という言葉を聞くだけで、何とも言いようの無い恐怖を感じる。」
それは何故だろうと考えてみたら、小学校の頃に読んだ科学の本から来ているのではないかと陸は思う。「南極」の本だ。「南極物語」がブームの頃であり、この手合いの書籍が沢山、出版されていたのだろう。
「南極」には「クレパス」という「溝」があるらしい。こいつは極寒の南極の大地に隠れていて――雪に埋もれているらしい――落とし穴よろしく、踏み間違えると、文字通り「奈落の底」に落ちていく。
「「奈落」っていうのが怖いんじゃないか」
と、ぐちゃぐちゃの恐怖に答えを出しておこう。そう、陸は思った。
「そう思わないから、セックスもうまくいかなかったんじゃないか」
大学も二年になり、依子と付き合いだして、同棲しだして一年経つのに、いい加減何とかしなくてはならない。直前までは抜群の「前戯テクニック」で「ヒー、ヒー」言わせられるのに、どうしても、「結合」の時になると上手くいかない。「前戯」は指の角度が問題だ。口のときは目を閉じるぐらいが集中できる。それはわかってる。だが、「あれ」、底の見えない「あれ」を感覚的に感じると、陸自身は萎縮してしまう。触れると駄目なのです。
「精神的な問題なんだ」
「それと、マニュアルが足りない」
そうした類のマニュアル本を読んでも
、「前戯」についてはこと細かに書いてあるのに、「結合」の件になると「挿入」という言葉に還元されてしまう。
友人は言う。
「指を押し当てて、それを靴べらの要領でさあ、押し込むんだよ」
(問題はそこじゃない。そんなことはマニュアルにさえ書いてあった。)
「お前が怖いのは「深い」、「奈落」なんだろ? じゃあ、お前のモノでその底に辿り着けばいいじゃねえか。」(嘲笑)
(いや、違う、そうじゃない。けどこれが答えで無いとするとそれじゃ、怖いのは「奈落」じゃないのか? )
依子は陸にとって、そういった意味では三人目の女性だ。みんな処女だった。今までの二人もこれが原因で「セックスの合う、合わないってあるのね。」などといって、お試しで体験した浮気相手に味を占めて、陸の前から消えていった。「悲しいお話だ」。
陸はマンホールも怖い。古い漫画によくあったシーン、つまりは何かに夢中になって歩いている人物が、ぽかっと空いたマンホールの穴の上まで気づかず、歩き、二、三歩空中を散歩してから、ストンッと落ちる、そんな滑稽な場面も彼には恐怖しか与えなかった。マンホールの底も全く「奈落」という感じだ。想像がつかないのである。
底の見えないのが恐怖なのか。セックスという行為に恐怖を感じているのか。後者は違うと断言できた。セックスは大好きだ。裸で抱き合い、そのままの格好で朝を迎えて、「あったかいね」なんつってベッドから飛び出す。大好きだ。行為自体も最後までいけなくても大好きだ。兎に角、指や舌を使い、女の子が眉間にしわを寄せて、苦しそうに、それこそ苦しそうなのに、口からは「気持ち良い」と正反対の声、たまらない。
「やはり、底の見えない何かが、そして、底に落ちてしまうのが怖いんだ」
陸はそう結論することにした。ストンッと落ちてその先どうなるかがわからないのが怖いのだと。
形式としての別れ話
陸は、今日、依子とのことに関する、素晴らしいアイデアの実行を開始しようと決めていた。そのため、依子と大学の傍の古本屋で待ち合わせをしているのだ。陸が古本屋の引き戸をガラガラと開けて店内に入ると、少女漫画のコーナーに依子はいた。全部読み直したいと言っていた『天使なんかじゃない』のばら売りの前に彼女は立っていた。
「集めなおすの? 」
「これじゃあ、無理。だって三巻と五巻がないんだもん」
「ホンジュラス? 」
「何いってんの。これじゃあ、無理って言ったの。聞き間違えるのにも程があるよ」
彼女の格好は白に近いピンクのトレーナーに、ねぎを巻いているの? と訪ねたくなるような淡い黄色のスカーフを首に巻き、幾何学的な柄のタイト・スカート、黒のハイソックス、スエード地のパトリックと思われる薄緑のスニーカーといったもので、ああ、そうね、初夏なのね、とあらためて思わせる格好だった。
「で、何? 用って」
これに合わせるならなら、トレーナーはピンクよりももう少し濃い色の方が良かったのではないか、ネイビーとか、と陸は考えながら、今度買うつもりだった渋澤龍彦の文庫本に視点を移していた。そして、今日は買うのは、いやしばらく買うのは無理だと思った。
「うん。学校で話すよ」
「別れようとかだったらお断りだからね」
といって、こうなったら怖いとかの芽を次から次へと潰していく依子は、笑って先に店を出た。いつも思考の先を回る。今回も陸の「いつもと違う」様子に無意識的に反応してしまったのだ。「いつも」を依子は求めている。その点では保守的な女の子だ。
依子は地方中枢都市から出てきて、大学生活を送っている。一人暮らしだ。その学校から程近い、学生用の1Kアパートの二階――兎に角壁が薄い――で、彼らは週に六日、多くて七日全て一緒に暮らしている。陸の家は両親と同じ住まい、「実家」だ。こうしたカップルは概して、「一人暮らし」に「実家」が転がり込む。楽しい、楽しい「プチ同棲」って奴だ。本当に幸せな、しあわせな一年間。
古本屋の外に出ると、綺麗な並木道が続いている。ここでもまた、陸は、その強まってきている日差しと、それを反射する濃い緑色を見て、ああ、そうね、初夏なのね、と感じた。
学校まではこの並木道にそって歩けばよい。そうしたら正門が見えてくる。
そこを歩く「二人はまるで捨て猫みたい」だった。
門を通り、並木が欅から桜に変わる。この一年間で見慣れた風景。依子と二人歩いた道だと陸は思った。
緊張するが、「別れ話」をしようというのではない。二人が愛し合っているだろうなあということは事実なのです。陸は兎に角、依子を「愛」しているし、依子も兎に角、陸を「愛」している。緊張はしない。ここ何日間で紡ぎだしたアイデアを実行するだけだ。陸は歩きながらそう考えた。それに何となく依子なら面白がってくれる気もしていた。
うらぶれた――ドヤ街の「うらぶれ」とは異なります――生協経営の学食の席につき、陸はお茶をすすった。依子は牛乳プリンを食べている。
「あのさあ、俺、しばらく姿を消そうと思ってるんだ」
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