可能性としての
 W杯

 Possibility of
 the World Cup

 高橋典史
 TAKAHASHI, Norihito
 
にもかくにも、あと2ヶ月あまりで、世界最大のスポーツイベントである2002年W杯がついに開幕する。昨年の9月11日以降、世界全体に蔓延しているある種の「違和感」、もしくは「不協和音」は、夏季五輪をも凌駕するこのスポーツの祭典において、どのような展開を示すのだろうか?とても興味深い問題である。
   
とえば、先に行なわれたソルトレイクの冬季五輪は、世界の中心であるアメリカの大々的なショーと言えた。五輪を格好の政治的プロパガンダとしようとする意図は、開幕前からも充分に予想できたことであり、その意味では想像を越えるものではなかった。ただし、あそこまで露骨に行なうとは予想できなかったけれど・・・
       
もそも、東欧の共産主義圏が崩壊した現在、冬季五輪は全く西側諸国のものになっている。簡単に言えば、EUとアメリカ・カナダの白人のための祭典となってしまっているのだ。今回のソルトレイクは、開催国であるアメリカのいわゆるWASP中心のナショナリズムを発揚させる絶好の機会となったのだが、その背景に「冬季五輪は西欧の白人のためのもの」という前提があったからこそ、ブッシュ政権はそれを容易に利用することができたのだと考えられる。ここに冬季五輪がどうしても盛り上がりに欠けてしまう原因の一つがある。つまり、冬季五輪は決してW杯にはなりえないのである。
    
の一方で、サッカーのW杯は全く性質が異なっている。第一、サッカーという世界最大の競技人口を誇るスポーツにおいて、アメリカは絶対的な存在ではない。むしろ周縁的な存在である。あらゆる分野において世界最大規模のイベントであるW杯の価値を、アメリカが理解していないという事態は幸運とも言える。北半球中心、白人中心の五輪に比べて、南米やアフリカに強豪が存在するW杯は、通常の政治的・文化的権力配置(パワーバランス)とは大きく異なっているのだ。
    
こで断っておきたいのだが、ナショナリズムもしくはグローバリズムこで断っておというもの自は必ずしも悪ではない。というよりも、それらは「近代体化」が必然的はらむものである。問題なのは、単一のイデオロギーやに体制に回収さなればならないという強制的な力が働き、しかもそれをれ一つの国が支している現状である。つまり、世界システムの中枢から配疎外されてい数多く国々が存在しているという現状なのだ。だから、るソルトレイクおける五輪とは、そのようなアメリカ中心の覇権体制をにとても分かりすい形で改めて示してくれていたに過ぎない。だからこやそ、9月11以降の「違和感」を解消できないまでも、未来への糸口日を見つけ出すうな期待は全く持たなかった。
    
して、ソルトレイクでは、スキーのクロスカントリーに出場したアフリカ選手たちに対して、拍手と歓声が起こったが、私からすればあの光景は滑稽なまでに悲しかった。あれはある意味、「見世物」である。シドニー五輪の競泳に参加したアフリカ人選手の時と同様、白人の世界に「参加させてもらった黒人選手」という構図が見てとれることは否定できないだろう。改めて、冬季五輪における人種・民族間のヒエラルキーを見せつけられたようでうんざりした。
        
からこそ、究極的な中心を欠いているW杯に「何か」を期待してしまう。もちろん、W杯においても欧州サッカー連盟(UEFA)が強力な力を持っているし、西洋中心的な価値観による決議がしばしば下される。しかしながら、いわゆる先進国ではないブラジルやアルゼンチンは優勝候補であるし、デフェンディングチャンピオンであるフランスの主要メンバーはほとんどが旧植民地国出身である。強豪とされながら、いつも好成績を残せないスペインは、軍事政権下における地域間の対立がそのまま影響している。サッカーは「暗い歴史」を隠せないのである。植民地・宗教対立・地域紛争・・・それぞれの国の抱える問題が、そのままフィールド上に現れるのだ。W杯においては、一つの大国の思惑で世界の多様な「歴史」が隠蔽されてしまうことなど不可能と言えよう。
      
に言うポスト・コロニアリズムとは、決して安易な「脱植民地主義」であってはならないだろう。なぜなら、単に植民地主義を否定するだけなら、植民地がなかったかのように、世界はもともと均質で平等であったかのように、「歴史」を隠蔽したり、捏造したりするのと何ら変わらないからである。それこそ、一部の大国の文化・政治・経済的な利権と結びついて、新たなコロニアリズム(ネオ・コロニアリズム)を進行させてしまうことになるだろう。つまり、ポスト・コロニアリズムとは、ネオ・コロニアリズムが着実に進行している現状を、過去(歴史)の反省から批判的に問い直していく姿勢なのである。
     
えに、今私たちに必要なのは、美辞麗句や正義を振りかざして、都合の悪い「歴史」から目を背けることではない。そういったものによって隠されつつある「暗い歴史」を、傷口から膿を取り出すように、痛みをともないつつも明らかにする作業こそが必要なのである。その意味では、ソルトレイク五輪でアメリカが行なったことは、体内では化膿しているにも関わらず、傷口を強引に塞いで健康を装うことと同じである。いつか必ず、膿は再び噴出するだろう。しかも今よりも、もっとひどい症状となっている危険性もある。結局、ソルトレイクは世界の「不協和音」を全く解消できなかったのだ。
     
こで、私が本稿で指摘しておきたいのは、W杯の可能性である。しばしば、「スポーツと政治が別物である」などと語られるが、プロ選手が参加し、国別対抗戦の形を採っている様々なスポーツの国際大会において、政治や経済の影響を否定することはできないだろう。ましてや五輪やり除くことなど不可能である。そうW杯から、政治的な要素を一切取であるならば、国際的な利益のために、スポーツを利用することも一つの方法ではないだろうか。ただし、それは一つの国の利益のためではなく、参加する国々それぞれの意志表示や問題提起のための場として平和的に利用されなければならない。
     
ルトレイクはアメリカのネオ・コロニアリズムによって、「植民地的なもの」、「帝国主義的なもの」、「非キリスト教的なもの」を暴力的に隠蔽した。だからこそ、「コロニアルなもの」がいきいきと、そして主体的に活躍する舞台であり、しかも初のアジアで開催されるW杯に、いつ実現するかも分からない「真に脱植民地化された世界」を私は夢見てしまう。それはおそらく、世界の現状があまりに悲劇的であるからだろう。
       
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