月が泣く夜
第二章  双子

 MOTOI HATTORI

 

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「……ったく、何で起こしてくれないんだよ? 姉貴……」
 生方至は一人文句を言いながらのそのそと部屋から出てきた。
 至は目覚ましが二度目に鳴った後も大抵布団の中に潜り込んだままだった。それというのも、いつも頃合いを見計らって姉が起こしてくれるからだ。家を出る時間も姉の方が十分ばかり早いから、姉に起こされてからでも十二分に時間があるのである。
 しかし、今日に限ってはいつものように事が運ばなかった。
 普段至は初めに目覚ましが鳴った時点で目を覚ましており、姉が起こしに来るまで布団の中でじっとしているだけだった。しかし、よりによって今朝は鳴った後でウトウトしてしまい、起きるのがいつもより十分ほど遅れていてしまったのだ。朝慌ただしい中での十分間は何物にも換えがたい貴重なものだから彼は急いでテーブルについて愚痴を零しながら少々冷えたトーストにハムやチーズを乗せて忙しく口へ運び始める。
「姉貴もせめて声くらい掛けてくれれば良かったのにな……」
 至は寝呆けていたからおそらく気付かなかったのだろう。姉の明るくてよく通る声はもちろん、母の少し苛立った声すら今朝は聞こえてこないということに。
二人が何か話していたら、普段はすぐ気付くはずなのだ。
至が食事を終えかけた頃になって、姉がキッチンへやってきた。
「至? そっか、もう起きたんだ」
 至の背中を悪寒、というか怖気が走り抜けていく。普段の姉の声ではなかった。
何だか自信を失ったような、心身ともに傷ついたような妙にしおらしい声で彼女が声をかけてきたからである。
「当たり前だろ! だいたい姉貴こそ、もう時間ヤバいんじゃねぇのかよ」
「うん、いつもならね。でもあたし……今日は学校に行く気ないから、さ」
 テーブルの端に転がっている小さな置き時計を指差していた至が文字通り硬直する。彼自身、顔から血の気が引いていくのがはっきりと分かった。姉の、遥の目が真っ赤に充血しているし、顔色もよくないのだ。だが、学校を休みたがらない彼女がここまで投げやりになったことなど今までに一度もなかった。
 彼らは双子だから生まれた時からずっと側にいた。それゆえお互いに相手の考えていることが感じ取れることもあるのだが、今回ばかりはまったく見当もつかなかった。
「だいたい行く気になんかなるわけないでしょ? だって――」
 遥はそこまで言うとうつむいてしまった。何時の間にか背後に近寄っていた母が至の視界一杯に新聞を広げた。遥の方に目を奪われていた至が少し不機嫌そうに眉を寄せる。
 それは今日の朝刊の地方面だった。いつもならば至が読み飛ばしている紙面だ。
 母は無言のまま少し大きめの記事を指し示した。
「秋穂が――」
 そこまでようやく口にして、遥はきゅっと口を引き結んだ。声を挙げて泣くのを必死に堪えようとしているのだろう。
 至が記事の内容に気付くのと姉が堪え切れずに大泣きし始めたのはほとんどど同時だった。だがどちらが先だったにしろ、その一瞬で彼の頭の中が真っ白になった。
 川部秋穂は幼稚園に入る前からの幼なじみである。姉とは特に仲がよく、至も交えて三人でよく遊んだものだった。いや、遥とは今でも柏戸高校で同級生だし、至とも中学まではずっと一緒だった。小学校時代には生方姉弟と三人で同じクラスになったこともある。
彼の中で半身を割かれたかのような悲しみと怒りが込み上げて来る。
 新聞には、川部秋穂が戸井川周辺で殺されたことや一ヶ月前に起きた事件に死体発見時の様子が似ていたことから関連を調査中、といったことしか書かれていなかった。
 だが至にはそれくらいしか書かれていないことがむしろ腹立たしかった。双子にとっては新聞の一面記事よりも重大な事件だったのだから当たり前だったが。
「二人とも、気持ちは分かるけど――高校へは行って来なさい」
 母は疲れた声でそう言った。いや、現に疲れているのだろう、目の下の隈は濃い。
「休みたいだろうけど、あんた達が休んだところで何も変わりはしないんだ。むしろ別の何かに打ち込んでた方がまだ救いがあるんじゃないか?」
「でも、今日は学校になんか行きたくない! そんな気になれないよ……」
 遥はなおも文句を言いたげだったが母に一瞥されて黙り込んだ。
「姉貴の言う通りだとも思うけど、家で悶々としてるの見たら川部が悲しむだろうな」
 至は自分の部屋で制服に着替えながら言った。その顔には苦悩と悲哀が浮き出していたが、彼はぎゅっと唇を噛み締めている。決心が着いたのかもしれない。
「姉貴もさ、一応学校には行って来なよ。辛いだろうけど、今日休んだらこのままずっと学校に行けなくなっちゃうかもしれないしさ?」
 至はそれだけ言うと部屋のドアを勢い良く閉めた。
 普段ならば至も茶化すように言っただろう。だが、この時ばかりはよほど不安だったのか、真剣な口調で姉を諭した。
 それもあって遥の顔が一瞬強張った。至の指摘した通り、今日行かなければ明日も明後日も、その後だって秋穂と一緒に通えないことへの辛さと悲しみばかりが募り、登校拒否に陥りかねないと気付いたのだろう。
 母親が二言三言さらに遥に言い募っているようだったが、至は聞いていなかった。彼が着替え終わって出てくる頃には母娘の会話はすでに終わっており、姉は自分の部屋に戻っていくところだったから尋ねることもなかった。
「オフクロ。姉貴、行く気になったみたいだった?」
「早退はするかもしれないけど、一応行ってみるってさ」
しばらくしてバタンと勢いよくドアが閉まる音がした。至が髪を整えている間に秋穂が先に出て行ってしまったのだろう。
「ふぅん……やけに早ぇな。姉貴」
 至がそうポツリと漏らしたのも無理はなかった。
姉はいつも髪を梳かすのに時間をかかるから、髪型をほとんど整えないで出て行くところが余計に急いでいるような気がした。
「じゃあ俺も行ってくるね。まあ、遅刻は覚悟しなきゃならない時間だけど」
 彼は腕時計を見ながらそう零した。時間や約束を守ることを子供の頃からしつこく躾られたこともあって彼は遅刻することを極端なまでに嫌っていたのだが、これだけ予想外のことに時間を取られては致し方ないことだと自分に言い聞かせる。
 至は少し早足で戸井駅へ歩を進めながら、姉のことが頭から離れなかった。
 双子の家は駅から歩いて十四、五分のところにある。大通りから少し入った閑散とした住宅街の中なのだが、今日は騒がしい小学生の群れにも、コートを羽織って駅へと急ぐサラリーマンにも一人として会わなかった。
いつもより十五分も遅ければ、それも当たり前かもしれない。
 だがその静けさが余計に彼の頭脳を活性化させた。まるで追い立てられるように出て行く姉が可哀相だったから今日はやけに気に掛かるのだろうか?
 いや、違う。
 その時になって今まで漠然としていた予感が突然具体的な姿を伴い始め、確信に変わった。その予感を信じて、至はようやく大通りに出た足を逆の方へ向けた。
――どうせ遅刻するならどんなに遅れても構わないもんな。
 開き直ったその足取りは風に舞う落ち葉のように軽やかだった。
  その頃、生方遥は戸井川土手のコンクリートの上に横たわっていた。もう涙は出ていなかったが冬空の寒風が目の辺りを撫でると少し冷たい気がした。
 空にはいくつか千切れ雲が漂っていたが遥の目にはそんなものは映っていなかった。
 子供の頃ジャングルジムのてっぺんに上って、秋穂と一緒に見たこんな空を心の中で思い浮かべていたのだから。
 何も考えまい、ボーッとしていたい、そう思っているのに、今となっては辛い思い出ばかりが彼女の心を覆い尽くしていく。
「母さんには悪いけど、あたしやっぱり学校に行く気がしないし……」
 遥はため息を吐きながらそう呟いた。白い吐息はスウッと掻き消えていく。
彼女は上半身を僅かに起こして、戸井川に視線を移した。
小さい頃は三人で水遊びもしていた川の面影がまだまここには残っていた。秋穂の家の側では両岸がコンクリートで固められ、風情が無くなってしまっているのに。
「おい、姉貴。何サボろうとしてんだよ?」
 唐突に聞き慣れた声が投げかけられ、遥は心臓が止まりそうなほど驚いたが、敢えて振り向こうとはしなかった。ここにいれば、きっと彼が迎えに来ると思っていた。ひょっとすると至が来てくれることを心の何処かで期待していたのかもしれないとも思えた。
「姉貴のことだから素直に学校には行ってないだろうなって、そう思ったんだ」
「ふぅん。それってあたしが素直じゃないってことかな、至?」
「さて、どうだろうな」
 弟は笑ってごまかしながら、姉の隣で大の字になって寝転がった。朝からずっと張り詰めていた精神が一瞬にして弛緩していく。こんな解放感は久しぶりだった。

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