どれぐらいの間、だったのだろうか。
二人にはやけに長く感じられる沈黙が拡がった。
「あたしね、もう何も考えられない……ううん、もう考えたくもない」
「俺もそう思ったよ。でも、そうすると秋穂のことばっか思い浮かぶ」
彼自身、秋穂が自分にとってこれほど大事な人だったのかと思わず首を傾げたくなるほど、頭の中が彼女で埋め尽くされていた。
生まれた時からずっと一緒だったからだろうか。二人は互いに寄り添いながら、不思議な安堵感に包まれていた。おかげで、遥も少し踏ん切りがついたらしい。
「そろそろ、学校に行こうか」
遠くで学校のチャイムが聞こえてくる。小学校か何かで一時間目が始まるのだろう。
二人は駅の方へゆっくりと歩き始めた。テンポの良い足音が一際高く人通りの少ない住宅街で鳴り響いている。
至は遥と並んで歩くのが嫌いだった。何でも仲の良い恋人同士に見えるらしく、中学時代から数え切れないほどからかわれてきたし、羨望の対象だったらしい。
姉は客観的に見てもかなり美人だから、中学時代から同級生の憧れの的だったこともそうしたやっかみの遠因なのだろう。
「至、学校から帰ってきたらさ……」
「川部ん家へ行かないか、とか?」
至が柄にもなくニヤリと笑って言葉を継いだから、遥は思わず吹きだしてしまった。今朝はずっと沈んだ顔だったから、なおさら笑顔が映える。
「やっぱり至にはそういうことバレちゃうね」
「まあね。でも今日俺は六限まであるんだけど」
「仕方ないか。あたしは至が帰ってくるまで家で寝てるかな?」
しみじみとした口調だったが、至は気に留めないようにして走っていく。
風に乗ってカンカンカンという音が至の耳に入ってきた。
彼は歩く速度をほとんど落とさずに時刻表に目を走らせ――言葉に詰まる。
「マズイな。あの電車を逃すと十五、六分待つみたいだ」
二人は角を曲がって駅前広場に出てきた。確かに踏み切りが下りていて、乗るはずだった下りの電車が去っていくのが垣間見えた。
「間に合わなくて当たり前だよな。どうせ遅刻なんだからどうでもいいことだけど」
「あんたはいいわよ。あたしの方が遠いんだからね。あの電車に乗ってても皆勤賞はないんだもの。まあ、いいけどさ」
遥は淡々としていたが、それらは全て自分に言い聞かせるかのようだった。
だが二人がホームで待って五分としないうちに次の電車はやってきた。
「悪い、姉貴。土日のダイヤ見てたみたい」
至は駅に貼り付けてある時刻表を見ながら笑っていた。至を剣呑な目付きで睨んでいた遥もそんな弟につられて笑い出した。
だが電車に乗ると二人は一変した。二人とも一言も発することなくむっつりと黙りこんでしまった。いや、言葉を発する気も失せてしまったという方が正しいかもしれない。
秋穂の死ばかりが心に掛かって、うまく話を切り出せない。そうした状態が互いに続いていることで雰囲気が重くなり、さらに話が切り出せなくなるという悪循環だった。
二度目にドアが開いた時に至はじゃあなと言いながら降りていった。
駅に隣接する駅ビルに『井代ショッピングモール』という看板がかかっているのが遥の目に留まった。いつもなら至よりも少し早い電車に乗っているということも手伝って、井代の駅前に目を凝らすことは無かったから、その看板が新鮮に見えた。
「家から近いっていいわよね」
電車のドアが閉まる直前、遥はため息を吐きながらそんなことを口にした。
目の前の席が空いているのを見て遥は席に座った。疲れがどっと出たような気がする。
普段の通勤ラッシュの時間帯ではないものの、人は大勢乗っている。
周りには大勢の人がいるのに、遥には何故か寂寥感が胸を浸していた。心にぽっかりと空いた隙間を吹雪いてるような感じすらある。
いつもなら、隣には共に笑いあい語り合うことの出来る人がいた。つい今しがたまでは
――いくら黙り込んでいたとはいえ――唯一この心の隙間を埋められる弟がいてくれた。
しかし弟がいなくなったことで、孤独な自分というものが強く強く感じられたのだ。
遥は強風にバランスを崩し、足をよろめかせながら柏戸駅で降りた。
風で髪がかき乱され、顔を覆い隠す。彼女はこれ幸いとトイレに駆け込んだ。
目が充血して醜く歪んだ今の顔を一刻も早く洗い流したかったのだ。
2
遥が学校に着いたときには、すでに臨時集会が半ばほどまで進んでいた。今日は臨時集会の後すぐに下校、という時間割に急遽変わったらしい。
それなら戸井川土手でボーッとしていても良かったような気がして、遥はちょっぴり後悔していた。学校に来て秋穂のことで周囲に気を遣われる方が辛かったからだ。
集会が終わって教室へ戻ってくると案の定遥の机に友達が集まってきた。
「ねぇ遥、どうして来たのよ?」
クラスメートの何人かが気付いて話し掛けてきた。
「家でボーッとしてても辛いだけだから」
少し寂しそうな笑みが口元に張り付いていた。彼女自身がぎこちないと思う笑顔だ。
「そうなの? 私、無理して学校に来たのかと思って」
「そんなんじゃないわよ。まあ、当分ブルー入っちゃうんだろうけど」
周りの男子生徒たちは突然の僥倖に喜びを隠せない様子だった。いや、男子だけでなく女子生徒の中にもそうした者は少なからずいたようなのだが、遥の周りに集まった友達を見て、出来る限り嬉しそうな素振りは見せていないようだった。
だがそうした配慮を感じるたびに、遥は余計哀しくなった。せめて秋穂のことを知っている子くらいには今回の事件で心を痛めて欲しかった。彼女の死を本当に悲しんでくれる人が少ないような気がしたのだ。
そんなこともあって遥はその日一人で家に帰った。行きも帰りも大抵秋穂と一緒だったから寂しさは募ったが、できるだけ表情に出さないようにした。
「ただいま」
彼女は学校から帰ると真っ先に洗面所へ行き、顔を洗った。案の定目の周りは真っ赤になっており、そんな自分を見ると昨日の自分とはまるっきり別人のように見えてしまう。そしてそんな自分が可笑しくて奇妙にも笑いたくなった。
彼女は自分の部屋に戻ると、ふと机の上に置いてあった写真に目をやった。
それは修学旅行の時に二人で撮った写真の一つだった。
柏戸高校の修学旅行は広島・長崎だったから、原爆ドームや唐人屋敷などの名所の写真が何枚もあった。そしてその写真の中の秋穂はいつも笑顔を絶やさなかった。隣に写っている同級生の誰よりも。例えそれが遥だったとしても。
この笑顔がもう一生見られないのだと思うと何だか寂しかった。まだ修学旅行から二月と経っていなかったが、そうした時間の隔たりがやけに遠く感じられる
――そういえば、ここ二、三週間秋穂の顔は曇ってたっけ……。
修学旅行の少し後から彼女の笑顔が消えたことを遥は思い出した。おそらくそれがこの笑顔をより一層懐かしく思わせるのだろう。
彼女はそこまで思索を巡らしたところで我に返った。少し開いたドアの隙間から北風が吹き込んできたから、遥はドアを閉めて急いで着替え始めた。
着替え終わるのを見計らったかのようにドアをノックする音が部屋に響いた。
「遥。あんた、結局学校を早退してきたの?」
呆れたような視線を母親が投げかけてくる。
「違うわよ。学校が早く終わっただけ」
「そうなの……秋穂ちゃんのお通夜、明日の六時からだって」
出し抜けにそう言われ、遥の顔が子供にもはっきりと分かるほど彼女は顔を引きつらせた。もっとも心の準備が出来ていれば動揺がこれほど表に出なかったかもしれない。
「遥、別に無理して普通に振舞わなくてもいいのよ。しばらくの間は秋穂ちゃんのことになると過剰に反応しちゃうだろうけど、それが普通なんだから」
「母さん……」
「お前は秋穂ちゃんのためにも、何事にも精一杯頑張りなさい」
何を言いたいのかが分からず、遥は怪訝そうに眉を寄せた。
「秋穂ちゃんはこんな事故で殺された。もっと生きられたはずなのにね。でもお前はまだ生きてる。今回のことで私がいつも言っていることがよく分かったんじゃない?」
母親がいつも口を酸っぱくして言っていること、それは日々を後悔することなく精一杯生きていくということだ。
確かに、今までは自分の死というものははるか遠くにあると考えていたから何度聞いても頭に入っていなかった気がする。でも、人生にはとてつもないアクシデントが待ち受けていることもあるのだ。だからでこそ、後悔しないように時を過ごすということがどんなに大切なことか遥にもよく分かった。
確かに秋穂はきっとやり残したことがたくさんあるだろう。そんなことを考えていると、秋穂がきっと後悔していることが一つ思い出され、ふっと口元が歪んだ。
「お前は一瞬一瞬を精一杯生き抜いて秋穂ちゃんがやり残したことを引き継いでやりなさい。それが弔いになるかどうかは分からないけど……」
遥は母の意図に気づき、情けなくなってうつむいた。
母親は秋穂の死で自分を見失いそうになっている自分に目標を一つ指し示すことで励まそうとしてくれているのだ。
自分だって大きな衝撃を受け、気が動転しているはずなのに。
「そうだね……母さん、ありがとう」
彼女の声は消え入りそうなほど小さかった。
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