遥は母親を追い出すとベッドで仰向けに横たわった。後悔しないために、今一番やらなければならないことがきっとある。だがそれが何なのか遥には分からなかったのだ。
学校でいい成績を取って、できるだけいい大学に入ることだろうか。
それとも秋穂の家へ行き、秋穂の両親を慰めることだろうか。
遥は出来るならそうしたこともしてやりたいと思ったが、優先順位をつけるとしたらそれよりも大切なことがあるような気がしてならなかった。
そうやって思いを巡らしていると急に睡魔が襲ってきた。
遥は大して疲れていないような気がしていたが、実際には精神の磨り減り方が尋常でなかったため極限状態に近い状態だったのだ。
「どうせ、まだまだ至は帰ってこないもんね……」
遥は自分を納得させながら、そのまま眠気に身を委ねた。
結局のところ眠りが浅く、遥は一時間もすると目が覚めてしまったが、彼女の不安に反して悪夢でうなされることもなかったために目覚めは快適だった。
そして悪夢という連想で遥はようやく今一番しなくてはならないことに気付いた。
「秋穂なら――秋穂ならきっと自分以外に犠牲者が出て欲しくないと思ってる」
遥自身が自分の身辺に気をつけるというだけならばそれほど難解なことでもなかったろう。ただそれだけだったとしたら秋穂はきっと物足りないと言う気がした。
とはいえ、一介の高校生に出来ることなどたかが知れている。秋穂を殺した犯人追求のために奔走する警察に自分たちの情報を提供するとことぐらいしかできないだろう。
それでもそうすることが一番秋穂の死を無駄にしないことであり、彼女が一番望んでいるであろうことだと思えた。
そしてそれと同時に暴走しかねない弟を牽制することも大事だ。自分の死がきっかけで彼に何かあったと知ったら、秋穂はどれほど悲しむだろう。
遥はそんなことを考えながら、至が帰ってくるのをただひたすら待った。
ところで、その日の至はまったく授業に参加しようとしなかった。授業には出ていたがまったく頭に入ってこなかったのだ。
『死』という概念が頭にこびりついて離れず、他のことを――それがどんなに楽しい授業であっても――考えさせてくれなかった。
至が教室に入って来た時にはすでに二時限目も半ばまで終わっており、その時こそ先生に厳しく叱責されたものの、その後の授業では至はまったく注意されなかったために彼には似合わないそわそわおどおどした状態がそのまま一日中続くことになった。
よくつるんでいる友人達も至の様子に首を傾げていたものの、彼のただならぬ雰囲気に話し掛けようとする者は皆無だった。話し掛けた者も何人かはいたが、至の返事が素っ気なく、心ここにあらずという状態だったから、午後になると示し合わせたかのように誰も話し掛けなくなってしまったのだ。
彼の表情が変わったのはたった一回、帰りのHRの時だけだった。
深夜に出歩く際には十分注意することを先生が呼びかけたからだ。先生がそうしたことを呼びかける理由が川部だと容易に推察できたから至の表情は深刻になった。
――もし、こうした注意が昨日から行われていたら秋穂は死ななかったかもしれない。
そんなことが頭をもたげてきたからだ。
しかしそんな『もしも』ばかりを考える自分が嫌になって、至はいつも一緒に帰っている友達を無視して一人で帰った。
至は自分の中を占める秋穂がこれほど大きなものだとは考えてもみなかった。
確かに、家族を除けば、一番長く同じ時間を過ごしているのは川部だった。男と女という性の違いを意識させたのも姉と川部だ。
まるで兄弟同然に育ってきたから余計に川部の死が悔しいのかもしれない。そして自分がとてもちっぽけに思えてしょうがなかった。
姉と川部は昨日、塾に行っていた。だから川部が襲われたのは戸井の駅前広場で姉と別れてからと見て間違いないはずだ。ならば最近は物騒だからと川部を送り、姉と帰ってくるという選択も採れたのだ。どちらかの親に頼まれていれば至はきっと断り切れなかっただろうし、実現していたはずだ。
そう思えば思うほど自分にできる事はごく僅かで、しかも身近な人すら守れないという屈辱感だけが至の心に残り、痛いほど胸に突き刺さる。
もしもこの場所に遥や川部がいたら『あんまり自分を責めるな』と叱咤し、励ましの言葉の一つも与えたことだろう。しかしそうやって彼を支えてくれる人が側にいないことが至の苦しみをさらに深いものにしていた。
彼は電車の中でドアに寄りかかりながら、遠くに見える景色を眺めていた。
ビルが林立する様がこんなに寂しく見えるのはこれが初めてだった。ビルが一つだけポツンと立っているわけでもないのに、それらが何故か孤独に見えた。
至は自分が自分でないように思えた。
いつもの至なら、こんなことは絶対に考えないはずである。
「ホントに、俺いったいどうしたんだろ……」
知らず知らずのうちに川部に思いを寄せていたのだろうか? こうして心が疲れ果て、傷ついたのは我知らず失恋したからなのだろうか。
そんなことはない、と即座に思い返した。
だいたい一ヶ月くらい前に駅ビルで偶然会って、一緒に家に帰ったことがあったぐらいで高校に通うようになってからはほとんどマトモに話したことがないはずだった。それでいて川部に会いたいと切実に思ったことなどないのだから、恋などしていたはずがないと至は自分を説得しようとした。
あの時には子供の頃に戻ったような懐かしさと楽しさで互いに浮かれていた記憶が脳裡を掠めたが、そのことはすぐに記憶の奥底へ押し込めてしまった。
至はそこでようやく我に返ったが、それを見計らったように列車が停まり、至がもたれかかっていたドアが開いた。
彼は思わず倒れこみそうになって慌てて手摺りに掴まった。周りでは笑いを堪えてか、肩を大きく震わせている者も多かった。
至は情けなくてそのままその駅に降りて苦笑せざるを得なかった。
その駅が戸井駅だったのだから、なおさら笑いが止まらなかった。
――こんなこと知ったらうちの高校の奴ら大爆笑だよな。
その日一人で帰ってきたことに至は例えようの無いほどの安堵を覚えた。そしてそのドジが彼の心をほぐし、彼の足取りはほんの少しだけ軽くなった。
3
「至! あんたってばホントに……遅すぎる、待ちくたびれた」
ドアを開けた瞬間、遥が子供を叱るような口調で言った。
これでも早く帰ってきたつもりだと至はトーンを上げて言いそうになったが、それでは子供じみた言い合いにしかならないと気付いて押し黙った。
「あたしの高校、今日は集会だけで明日も休みなんだってさ」
「そうか……うちは明日もいつも通りあるよ。その……川部が死んだことも、市内で事件が起きたから注意するように、って……」
――社交辞令みたいなことしか言わなかった。
至は井代高校への不満をぶちまけようとしたが、そこまでしか言えなかった。
彼は、泣いていた。
しゃくりあげて泣いている自分に気付いた時、彼は恥ずかしくなって顔を伏せた。
「至? 泣いてるんだ…………秋穂のために」
遥は少し複雑そうな顔をして弟を眺めていた。最後の方はあまりにも声が小さかったために至には聞こえなかったが、遥の目の辺りが真っ赤なのには気付いていた。
「いくら喪服じゃないからって、ド派手な服は着ていかないでよ」
至は苦笑しながら、黒いオープンシャツとジーンズに着替え始めた。
ほとんどの時間を制服で過ごしていることもあって彼の服のレパートリーは少ない。そのうえ黒や濃紺といった色が好きなので、斬新なデザインの服など彼は一、二枚しか持っていないのが現状だ。一方、遥も至と同じように清潔感の漂う服装が好きだから、際立ってカラフルな服など数着しか持っていない。
本来ならば二人ともそんな心配などないはずなのだ。遥も自分が思っている以上に少し神経質になっているのかもしれない。
「至、帰ってきたの。ご苦労さん、疲れたでしょ」
母親がノックもせず部屋に入ってきた。持っている盆にはコーヒーが置かれている。
「まあね。姉貴よりは辛かったろうけど、これくらい……」
至はコーヒーをすすりながらそんなことを口にして母親が鼻白んだ。
「これくらい、川部のオヤジたちに比べりゃ大したこと無いよ」
至がそう言葉を続けたので母親は呆れたかのように肩で一回大きく息をする。
「それじゃあ俺、姉貴と出かけてくるから」
「至、お前……まさか秋穂ちゃん家に行くなんて言い出すんじゃ――」
「そのつもりだよ。やっぱり分かるもんなのかな?」
母親の語尾が震えていたことに気づいて至が少しおどけたような口調で言う。
「何を言ってるの! これからの二、三日は秋穂ちゃんの葬式やら何やらで忙しいのよ。お前たちのために貴重な時間を割けっていうの!」
母親の激しい口調に秋穂が慌てて至の部屋に向かってきた。
「お前たちが行くのはもっと日を置いてからでいいのよ。だいたい今行ったところで気まずくて話なんて切り出しにくくて居心地悪いわよ」
「……母さん、でも傷ついているからこそ、あたし達が行って話を聞くだけでも気持ちが落ち着くんじゃないのかな」
「遥。そもそもお前の言ってるのと逆に余計傷つくかもしれないでしょ?」
「……分かったよ。確かにオフクロの言う通り、余計に傷つくかもしれないし、そうなったら後の祭りだな。でも、川部が殺された場所だけは行っておきたいんだ。川部の死んだ場所に花を添えてやりたいしね」
「そう。それならまあ、いいけど。あたしも夕飯を作る気にならないから、レトルトのカレーか何かを買って来ておいて。頼むわね」
母親はそう言うときびすを返してダイニングの方に歩いていった。
「じゃあ川部が殺されたって場所に行ってこようぜ」
「うん……そうね、あたしもついてこうかな。でも至、あんたホントに今日は秋穂の家に行かないわけ? 帰りに寄ってこれるんだよ」
念を押すように問う遥の顔は寂しげだった。
「仕方ないじゃないか。確かに母さんの言う通り、川部の親父さんたちの重荷になっちゃうかもしれないんだ。積もる話は明日の通夜の時とかに話せばいい」
至の深刻そうな表情の中に、決意のこもった眼を垣間見て遥は一瞬ドキリとする。
その時だけは、弟の顔が凛々しく見えた上、彼女が毎日鏡の前で見ている顔の面影を見たのだ。彼女たち双子は顔付きやちょっとした仕草がよく似ていると秋穂がよく言っていたが、遥がそのことを実感したのはこれが初めてだった。
至は一旦こうと決めたら梃子でも動かない強情な男だから、いくら遥が説得したところで彼が翻意することはありえないだろう。
「まあ川部が殺された場所に行きたいってのはもう一つ理由があるんだけどね」
至は姉と並んで歩きながらそう呟いた。あまりに唐突だった為に遥は何を言っているのか分からず、明らかな戸惑いの色を見せた。
「姉貴、姉貴に殺害現場を『視』て欲しいんだ」
遥は弾かれたように顔をあげ、至の顔をじっと見つめた。
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