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藤波裕康は自然と顔がにやけてくるのを堪えることができなかった。
いつもなら日曜日の夜というのは、次の日から再び会社に行かなくてはならないという倦怠感からあまり嬉しくはなかったが今日は違った。
今週は新しいプロジェクトを立ち上げるためのレセプションやら何やらで忙しく、そのための準備に追われて土曜日はおろか日曜日も藤波の班は全員出勤を余儀なくされたおかげで明日は丸一日、火曜日も午後出でいいという状況にまで漕ぎ着けたからだ。もっとも、これも新プロジェクトが始まったらほとんど休めなくなるから今のうちに休んでおけという配慮だということは他の班員も考えていることだろう。
藤波はまだ三十路に手の届かない若さであるものの、斬新なアイデアを打ち出す企画力と強引とも取れる強力な統率力ですでに新プロジェクトの中軸になりつつあった。
そうした順風満帆であるという自信――もっとも人によっては自惚れと考えるかもしれない――が藤波の同僚であり、ずっと憧れていた女性、今谷俊子へのさっきのプロポーズに表れたのだと思えた。そして彼女の返答は藤波の自分への陶酔をさらに押し進めるものだった。
今谷が自分の手渡した指輪を受け取ってくれたのだから、やること為すこと全て上手くいくような、そんな気さえもしていた。
――まだ夜も十時を過ぎたばかりだ。家に着いたら秘蔵のウィスキーで飲み明かそう。
そんなことを考えながら、彼はアクセルを踏む足に力をこめた。
土曜、日曜の全員出勤とは建て前であって、用事があるので休めないと突っ撥ねた者も五、六人はいたから、病み上がりの今谷が大事を取って休んでも誰も非難しなかったろう。それなのに彼女は応援に駆けつけてくれた。それが班員の士気を高め、レセプション用の資料を仕上げられた一因だったのだ。
その功績に報いる意味でも藤波は二人で飲み明かしたかったのだが、早く家に帰って休みたいと彼女に真っ青な顔で言われては家に送り届けるのが精一杯の愛情表現だった。今谷が座っていた助手席から彼女の香水の残り香がまだ薄っすらと漂っていて、その匂いに一瞬気を取られ、彼のハンドル操作が一瞬おざなりになる。
「――っ!? あ、危ねェな!」
急ブレーキをかけたために一瞬体が前のめりになり、ハンドルに体を押し付けるような体勢になったがすぐに立て直す。目の前に天神橋が迫ってきていたからだ。
天神橋は電灯と電灯の間隔が広くて、あまり見通しの良くないうえに、普通の車が一台通るので精一杯という狭い橋だった。おまけに老朽化がだいぶ進んできたこともあってか近々改築するという噂もある。
とはいえ戸井川を渡らなくては藤波は家には帰れないし、この橋を通るのが一番の近道だから、藤波としても背に腹は変えられなかった。第一、ハンドル捜査を誤りかけたおかげで頭にぼんやりとかかっていた靄が晴れたような気がする。もうきっと今夜はこんな不覚は取らないだろう。
前方から対向車が来てないのを確認して一気に天神橋を駆け抜ける。
その時だった。
助手席側のサイドドアに何かが激しくぶつかってガンと音をたてた。
速度がかなり上がってきて気分が高揚したからか、視界が狭まったことも関係して、藤波は何かを轢いてしまったのかと思い一瞬心臓が死神に掴まれたような錯覚に陥った。
さらにもう一度、またしても車に何かがぶつかり、大きく左右に揺さぶられたような気がしたが、藤波は速度を落とすことなく車を前進させた。
横殴りの風などでないのは明白だったものの、何か厄介なものだったらどうしようという漠然とした不安が車を襲っている対象を目視させるのを押し留めているのだ。
その上自分がまだボロい橋の上にいるということに怖気付き、藤波は脇目も振らず、ひとまず橋を渡り終えてから確認しようと心に決める。
しかし、橋を渡り終える前にもう一度、今度は運転席側のサイドドアが何か鋭いもので引っ掻かれ耳障りなキィーッという音がして、藤波は耳を覆い、思わず外を見た。『心臓が早鐘を打つ』という心理描写が決して大袈裟ではないことを、そして時によっては心臓がこんなにも早く動くことを藤波はその時初めて知った。
悲鳴を上げたかったが、驚きのあまり声も出なかった。いや、声にならない雄叫びのようなものが口から漏れ出ただけだった。
窓ガラス越しには袴姿の男が刀を振り下ろした体勢で佇んでいて、そいつと目が合ってしまったのだ。気を失わなかっただけでも良しとしなくてはならない。
何故こんなところに、こんな時代錯誤な姿の男は立っているんだろう?
こんな闇色の景色に包まれてこの男は何をしようとしているんだろう?
藤波はみるみるうちに顔から血の気が引いていくのを感じた。
まさか自分が時代劇やオカルト番組、特撮の撮影などに紛れ込んでしまったのだとはとてもじゃないが考えられなかった。カメラマンがいないということからもそれは当たり前だったが、『彼』から発せられる気配からしてすでに尋常ではなかったからだ。
その場を包み込む異様な雰囲気に圧倒されて藤波はピクリとも動かない。
『彼』の体が緩やかなテンポで点滅していることにも、ここ数ヶ月続いている連続殺人事件の犯人だということにも、すでに頭の中が白濁して混乱しきった藤波にはまったくあずかり知らないことだった。
再び、今度ははっきりそれと分かる悲鳴が喉の奥底から絞り出された。
もっとも、この人気のない道路で藤波の悲鳴を聞きつけ、駆けつける人間がいるかどうか甚だ疑問だったが。
怯える藤波と対照的に『彼』は無表情だった。何の感情も見て取れない。その瞳からは生気を感じられず、ガラスのような冷たい輝きが放たれており、その輝きは抜き放たれた白刃と相まって美しい調和がもたらされている。
『彼』は躊躇することなく、運転席で固まっている藤波目掛けて刀を突き出した。刀が窓ガラスに触れ、無数の亀裂が走っていく。
藤波は固まったまま、それこそ時間も止まってしまったかのように動かない。
だが、ここで彼も予想していなかったことが起きた。
窓ガラスが粉微塵になって細雪のように舞い散った瞬間、何故か『彼』の動きが止まり、刀を手元に戻したのだ。
窓から吹き込んだ生暖かい風が藤波の額を撫でて、彼の硬直が解けた。
僅か一呼吸の間に彼は助手席側から逃げようとドアを開けた。
もう一回刀を突き出されたら、背中を見せている以上避け切れないわけだったが、藤波はそんなこと露ほども考えず、転がるようにして車から這い出した。その時にはすでに『彼』の二撃目が座席を叩き斬っていたから、藤波の判断は結果的に正しかった。
もし一つ決心が遅れていたらこの愛車が彼の棺桶になっていただろう。
さらにもう一撃、『彼』は刀を振るったものの、今度は背広を掠めただけで、彼の背中にまでは達しなかった。
『彼』は音も無く車の上に飛び乗ると三度藤波に切りかかった。その時、初めて『彼』の顔に表情が浮かび上がった。
――狂気。
いや、ひょっとするとそれは歓喜でもあったろうか。
藤波は後ろに一歩下がろうとして、それでもまだ『彼』の間合いの範囲内にあることに気付いた。もはや、絶体絶命といえた。
その時、彼の斜め後ろから耳慣れない乾いた破裂音が轟いた。
『彼』は藤波ではなく、破裂音がした方に向き直る。
藤波は疲労感からその場に座り込んだが、さっきとは別の緊張感がそちらから漂ってきたのを感じて、斜め後ろに視線を走らせた。
濃紺の背広を纏った男が拳銃をこちらに向け、鷹のような鋭さで『彼』を睨んでいた。黒光りする銃口からはまだ硝煙が一筋立ち上っている。
「ぎりぎりで間に合ったみたいですね――あなたが人斬り俊慶ですか?」
葵彰介はほんの一瞬、安堵に頬を緩めて藤波に笑いかけた。それは彼へ友好を表わすポーズであると同時に、彼の不安の裏返しでもあった。
葵は品定めするように明滅している時代錯誤な存在を眺めた。
人斬り俊慶がどういった男だったかが描かれている史料はまだ見つかっていないが、その血を求めている人殺し特有の目付きと服に入った家紋からしてもはや疑いなかった。
実戦経験の乏しい葵は幽霊――しかも、人を殺すことの達人――と対峙するのは無論のこと初めてだから、自然と顔が強張った。
相手が本物の人斬りだというのなら、自分よりも人殺しは得意だし、上手いだろうと見当もつく。それは自分の方が返り討ちにに遭う可能性が高いということだ。一つの些細なミス、一瞬の判断の遅れが致命傷になりかねない。
「あ、あんた………警察か? 助けてくれるんだろ?」
震える声で藤波はそう尋ねた。まだ声には怯えの色があったが、一命を取り留めることができたような安心感が体を包み込んでいく。
「すぐに逃げてくださいね? 僕もあなたのことに気を回す余裕はありませんから」
葵は無遠慮にもそう言い放つと立て続けに引き金を二回引いた。
彼が放った二発の銃弾は俊慶の衣服すれすれを通り過ぎていく。俊慶はまったくその場所を動かず、ほんの少し身をよじるだけで弾丸をかわしてしまったのだ。
葵は力量の差を感じながらも、何故だか笑いが込み上げてくるのを抑えきれなかった。
藤波は自分に向けているわけではないと心の何処かで確信していながら、不慣れな破裂音と目の前で繰り広げられようとしている奇妙な対決に我知らず身を縮こませていた。
何だかとてつもないことに巻き込まれているという被害者意識と、動く気配を少しでも見せたらあの時代錯誤な奴に何をされるか分からないという恐怖に取り付かれたものの、葵の素っ気ない言葉を思い出して覚悟を決めた。
俊慶の意識が完全に葵に向けられた瞬間を狙って藤波は再び車に飛び乗ると一目散に元来た道を逆送し始めた。
もはや葵に興味の対象が映っていた俊慶はまったく目もくれず、藤波の車を見送った。
藤波はそのまま少し遠回りな道を通って自分の家に戻るとそのまま着替える事もせず、死んだように眠った。橋の上で見た光景はまるで悪夢のような出来事だったから、起きてみたら何事も起こっていなかったかもしれないと信じたかったのだ。
実際に葵の乱入で一命を取り留めたことや無事家に帰れたことを思えば彼は十分ツイており、あたかも一種の奇跡のようなものだったが、とうの本人にはそのような自覚は全く無く自分の幸運を理解することは最後まで出来ず終いだった。
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