葵が俊慶と対峙するより二十四時間以上も前になる。
 LOSの事務所では少し大きめの会議室で二人の男が睨み合っていた。
「お前……正気か?」
 木戸沢の顔には明らかにそれと分かる憤怒が浮かび上がっていた。近くのソファーにもたれかかっている松枝も少し白けた視線を木戸沢と葵に投げかけている。葵彰介は先輩たちの視線にも怯まず、真摯にその手厳しい視線を受け止めていた。
 自分ではかなり確実性の高い結論を見出したと自負しているものの、こうした発言をするのには多少の勇気が要ったのだ。
 現に先輩方の動揺と抵抗も当たり前のこととして前もって覚悟していたことだった。
「葵くん。そんな無謀なことを提案する理由を教えてくれないかしら? 責任は当然あなたが持つことになるけど、私はこれ以上無意味な死人は出したくないの」
 松枝の口調は一ヶ月近く前に久しぶりに会った時とは打って変わって冷淡で空々しいものだった。葵までもがゾクッとするほどに。
『今夜、月が出てからほどなくして例の殺人犯が現れるはずです。だから戸井川付近の井代市と天田市の市境の僕が図示した道沿いを最警戒しつつ巡視してもらえませんか――』
 久々に三人が事務所に集まってそれぞれ情報交換を行うさささやかな会議でまず葵がそう切り出したのだ。二人は今回の事件に割ける人手が少ないことと人員の一箇所集中を危惧し、真剣に取り上げようとはしなかった。確かにそろそろ犯人が動き出しそうな可能性があるのには二人も気付いていたが、葵の指示通りに動くいわれはない。
 そんな二人と自分の主張を一歩も譲らない葵との間で次第に険悪な空気が流れ始めたのは当然の成り行きだった。
「おいおい、彰介。お前――ひょっとして今回の事件の犯人が分かったってのかよ?」
 打って変ったおどけた口調で木戸沢が言った。この事件を四ヶ月も追いかけてきた自負がこうした頑なな態度を取らせるのかもしれない。
「おそらく。その為に色々と苦労しましたが――」
 葵は生方姉弟の扱い方に苦労したことを思い返し、自然と苦い表情になった。
「まあ、新人の時はそういう自信と無鉄砲さも大切なんだけどね」
「松枝、いらん茶々は入れるな。それでこのマーカーで強調してあるこの道は何なんだ? こんな細い路地と国道にどんな関係があるか見当がつかないんだが」
「……かつて川だったんですよ。明治になって埋め立てられた旧戸井川なんです」
「戸井川? そんなものがいったいどうしてこの事件と――」
 戸井川と今回の連続殺人との間に関連があるとは思っていなかったらしく、松枝も木戸沢と同じく戸惑いを隠せずに彼が小出しに情報を提示していくことに苛ついている。
「まだあくまで推論です。ただ、会えば一目で犯人と分かる、そういう姿をそいつはしているはずです。先輩方も注意してくださいよ? ミイラ取りがミイラになるなんてのはこっちとしてもゴメンですからね?」
「能書きはいいから、ちゃんと説明なさい。葵くん、四人目の犠牲者を出さない自信、本当にあるんでしょうね……」
 松枝の視線にははっきりそれと分かる疑念がこもっていた。ちなみにLOSの面々でも仲間内での会合では感情を露にすることもあるが、発言を疑うことなぞまずありえない。
「僕たちの頑張り次第だと思います。三人で、ううん、できればもっと多く人が駆り出せれば言うこと無いんですけど旧戸井川をくまなく探せば大丈夫です」
 葵の言葉に二人は顔を見合わせた。怒らせていた肩から一気に力が抜けていく。
 葵は二人の先輩に自分の推論とそこに行き着く過程のほとんどを話すつもりでいた。
 それは生方姉弟のことも含めて、である。
 生方姉弟が犯人の「最期」を見たがるのは目に見えてるし、うまく説得したところで葵に内緒で旧戸井川沿いをさまよい、事件に巻き込まれる可能性が高い。説得に失敗した場合は葵に同行するのを余儀なくされるに違いない。どちらに転がるにせよ、二人のフォローがどうしても必要になるという算段が心の中でもたげていたからかもしれない。
「木戸サン、松枝先輩、じつは――」
 会合の最後で、葵が奥歯に物の挟まったような言い方で打ち明けた話を木戸沢悠也は今もしっかりと脳裡に焼きつけていた。
 だからでこそ一連の事件を最初に受け持った木戸沢は葵たちよりずっと上流で人斬りの出現に対して細心の注意と最大限の注意力を払いながら見回っているのだ。
「彰介は自信満々だったが……このまま一晩中待っても何も起こらなかったら俺も含めて今回の担当者はいい笑い者だな」
 彼は自嘲気味に呟きながら微かに口元を歪めた。葵が今この時点で俊慶相手に苦戦していることなど木戸沢が知る由も無かったのだから仕方の無い話だ。辺りはしんと静まり返っており、川沿いのサイクリングコースを往復しているこの二、三時間はまだ一人も会っていない。
「人斬り、か……」
 彼とて『人殺し』とやりあったことは両手で数え切れないものの、『人斬り』と対峙したことはさすがにない。それだけにどれほどの腕前なのか考えるだけで背筋がゾクゾクしてくる。『人殺し』とやり合っていたのとは次元の違う緊迫感を味わえそうだった。
 木戸沢は周りに意識の網を広げながら銃のグリップをハンカチで拭いた。
 汗ばんで銃の柄が滑りやすくなってしまっていたのだ。
 その時、彼ははっと眼を見張らせて銃を持つ手に力を込めた。下流の方から銃声が微かに聞こえるのを、仕事がら人の限界まで鍛えられた鋭敏な聴覚が聞き逃さなかったのだ。
 彼は三十代後半という年齢からどとらかというとベテランに見られがちだが、LOSでの経験だけで言えば現在のチーフである葵初音と同期で加入した人間である。
 つまりここに籍を置いてからまだ五年くらいしか経っていないのである。
 実は木戸沢は大学院を卒業してからKPCに入社したのだが、当初は単なる営業課へ配属されていたのだった。彼は初年度こそ華々しい実績を挙げたものの二、三年目には全くと言っていいほど契約を取れなくなってしまい、課長の信頼を完全に失ってしまっていた。そのことが彼を不安にさせ、積極的な営業活動も出来なくなってしまうという悪循環に陥ってしまっていた。木戸沢本人も解雇を覚悟する有り様だったのだから、同僚の『給料泥棒』という陰口も彼の身には冬に吹きすさぶ夜風のように辛いものだった。
 しかし捨てる神あれば拾う神ありとはこのことで、思いもかけないところから彼の前途は拓けた。彼の屈強な体格と秀才という評判を見込んでLOSへの配属が言い渡されたのである。銃の扱いに慣れるのが速かったことも幸いして、彼はLOSで自分の才能を発揮できる場所を見つけられたのである。緻密な情報収集力と観察力で犯人を追い詰めること。さらに急所をピンポイントで狙えるコントロールが身についたことで犯人の自由を容易に奪うことができるようになったことが、LOSに配属されたばかりの木戸沢に与えた自信は計り知れない。
 そのおかげで今の木戸沢がいるのであり、彼自身が天職と言い切るほど充足感のある生活を送っているのだからなおさらである。
 その木戸沢にとっても今回の事件は苦い記憶として一生忘れられない事件になるだろう。三ヶ月かけて集めた情報をまったく活かし切れずに新人で、しかもあの初音の実弟でもある葵の後塵を拝することになろうとは欠片も考えていなかったし、まだAランクとしてやっていくには力が足りないという現実を思い知らされたような気がしたからだ。
 その分幽霊の犯人とやらを捕まえることで自分の誇りを取り返したいと懸命に探し回っていたのだが、どうやらすでに誰かが交戦中らしかった。銃声だけでは葵なのか松枝なのか分からない。臨時要員として駆り出された実戦経験の浅い事務所の誰かかもしれない。
 いずれにしろ発砲していることからして、民間人でないことは確かだった。
「江戸時代の人斬りか……何だか知らんがせめて俺が着くまでは生きててくれよ」
 それから数歩進んで――銃声が、途切れていた。
 木戸沢の足もそれに釣られるかのように止まった。
じっと耳を澄まして、辺りの様子を窺う。人斬りに斬られて交戦者が戦闘不能になったのかただの弾切れか分からないがもう音はしない。弾切れならそのうちまた音がするかもしれないが、弾倉を入れ替える時間を俊慶が与えてくれるとは木戸沢には思えなかった。
 木戸沢は内心苦虫を潰していた。
 長年の経験からどの方向からかどれくらい離れていたかというものは分かる。だがこれで目的地に着く間に人斬りがどれだけ動いているか予想がつかなくなったのだ。足音を立ててでも全速力で音のしていた場所へ辿り着くというのも一つのテだが、一歩間違えると人斬りの強襲の餌食になりかねない。
 おそらく対岸の方から銃声は聞こえていた気がする。とはいえ、戸井川はそれなりに大きな川だから簡単に渡れるような川ではない。
 木戸沢はほとんど迷わずに対岸の方を意識しながら川沿いを行くことを選択した。もしかしたらこちら側に人斬りの方から近付いてくるかもしれないし、行く途中で橋がある可能性も捨てきれなかったからだ。
 木戸沢は銃を構えながら細心の注意を払って先へ進み始めた。
  

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