写実的なのは第六章のみであり、他は描出も映像の運動も極めて控えている。すなわち「onyva」は脚本としても破綻しているのだ。まるで行場を失った漂流者のように。
ところで、登場人物三名(男、女、郵便ポスト)のうち主人公は誰だろう。著者にしてみればそんなことは問題でないのだろうが、これを定めることが観念小説「onyva」を読み解く鍵となる。郵便ポストが添物であることは明白だろう(重要な役目を果たしているには変わりない)。男か、女か。女ということにしておこうか。第六章は女を視点として展開するのだし、何より男は「エキストラのように思ってくれ」と懇願するのだから。
主人公は女とする。
先の分類によって私は気づいた。そうか、高橋Dは脱構築の人なのだ、と。氏が脱構築論者かどうかはこの際どうでもよい。だが彼の執った、あるいは撮ったスタイルは間違いなく脱構築的なのである。エキストラの男の独白(これは告発といってもいい)によってついに「onyva」の姿が見えた。
男の独白について
ここで脱構築論について簡単に触れておこうか。フランスの哲学者J・デリダは西洋の理性信仰を形而上学と呼び、それを根本的に支えていた考え方として音声中心主義があったという。音声中心主義は、話者が話そうとした「意味」と実際「話すこと=パロール」が一致するものだと端から了解している。さらにその「話すこと」は「書くこと=エクリチュール」とも一致すると認めているのである。音声中心主義のこの見方は、言葉によっ
て「意味」を、世界の「根源」を知ることができるのだと、近代の形而上学を支えつづけた。
そう、形而上学は「同一性」を前提に成りえている。しかしデリダは、言葉に世界を再現できるような性質はない、という。言葉は「同一性」より、むしろ多義的な「差異」をはらんだものなのである。彼は、形而上学がもともと「根源」を理解したいという憧れの上にあることを暴き、その問題設定自体を無効にしてしまった。「根源」の否定は超越論的なもの、つまり「神」の否定につながる。このような序列の破壊が、ある種の混沌状態をつくり、西洋の理性信仰の歴史に組み込まれない存在に可能性を開いていく。すなわち構築を「脱」するのが脱構築論なのである。
さて、第一章で男はいきなり理解されることを拒否する。社会からはみ出るのだ。この点で、男に名前が無いのも腑に落ちる。そして第四章、ここでは「S」には能動的、「M」は受動的といった意味で序列が仮定されているとみていいのだが、男のはっきりしない物の言い方。この小説全編に渡ってそうなのだが、登場人物の歯切れは非常に悪い。「?」が多い。「S」と「M」のあいだで漂流するのだ。ただし、「書き手」には「S」、「読み手」には「M」と、これに限って明確な線を引く。これは後で考えよう。
男女の対話について
第二章を読めば明らかだろう。男は女の質問にタイヤキの例を挙げる(あまりうまい例ではないな、と思う。しかし、このやや焦点のぼけた作風は着実に氏の文体になりつつあり、それは意外なほど誘惑の毒牙を秘めている)。「国家」は「神秘性」とでも呼ぼうか。そして結論付ける。
「唯脳論的立場を取って極言すれば、つまり日本は君だと言えるな」
ここで序列の逆転が起きる。だがこの結論に対して、やはり名前の無い女は吐き捨てるのだ。
「ふん!くだらない。」
著者が唯脳論を持ち出したのも当然の成行きで、唯脳論の最たる例が、人間の脳が神の観念を創った、という根源の破壊なのだから。
第五章。「脚本家って女を食い物にする職業なんだよ」と男は言う。脚本家が「S」で女が「M」。「女なんて食い物にするまでもない」と女が言う。序列が壊れた。ここでも「謎が解き明かすことができ」そうでできないまま終る。
東京は生ごみ(「M」)の増加につれて鴉(「S」)も繁殖した。そしてその「鴉」も「一介のごみ」にされてしまう。この小話は非常に面白い。「うそでしょ」「ほんとさ」という会話が交わされるが、二人の冗談(おっぱいが田園によくある目玉の風船に似てるってことか?)でどちらかわからないままかわされてしまう。
ここが動物園か南極か、あるいは陸の上か水の中かで「私たち」と「ペンギン」の序列が引っくり返るのだ。「ヴェルサイユの宮廷貴族」にしても「生殖器(豊穣の神様)」にしても「蛾が卵を産むこと」にしても、一貫して「神秘性」や「憧憬」は全て否定され、充分な議論も交わされず、「わかりっこない」混沌の場へと落とされる。脱構築批評的という由縁だ。既成概念を否定された人間はただ慌てるしかない。そう、ちょうどドリフのコントのように。コント、そこにあるのはただ混沌のみ。
写実的文章について
繊細な描写がなされた第六章は異色である。詳しくは「onyva」を読めばよいのだから繰返しは避ける。その構図だけ解こう。
本社から来た「郵便ポスト」。彼のみが仮の名を与えられる。なぜだ。それは後に明らかになる通り、彼こそ形而上学、「神秘性」の権化なのだ(「神」もあだ名だろう?)。そういえば第三章で「インテリアに国家があるか」という命題が下されるが、これは「インテリアの根源を求めることはできるか」と読みかえてもいいだろう。そして、とりあえず答えは「ある」ということになろう。なぜなら郵便ポストによって、店はインテリアって名前を取り戻すのだから。インテリアの「同一性」が保証されるのだ。
郵便ポストは「聞き上手」=「M」になることで、女と店員の自分に対する不信感を取除くと同時に彼女らの間にあった距離感をも消し去る。このインテリアショップの構図は複雑だ。「M」は郵便ポスト、ここでの「S」は店員の女性群だ。彼女らは「話す」ことで自己保存ができるようになった。しかし店員の彼女らは「M」でもある。この時の「S」は店長の女である。本当の意味でエキストラの彼女らは、「エキストラ」を懇願した男と同様に「S」と「M」を往来する。
この二重構造において、では郵便ポストと女の関係はどうなのか。女は店員の彼女らとの間に「なにがしかの線を引いていた」。そして問う。
「私は彼女たちではなくなったのだろうか?」私は純「S」なのか、はたまた両方なのか。女は男との会話でも常に答えを探している。構築から脱した後の「行先」を。
そして「ある晩」、女は「神秘」との対話を許される。 女「『M』ってつらくないですか?『M』って結局のところ『S』に利用される…自分 を表現できないんじゃ?」
郵便ポスト「つまり『M』のおかげで『S』は助かっているのだと?」この会話の「S」「M」に仮に「人間」「神」を入れて読むといい。どちらにどちらを入
れても構わない。そもそも序列は壊されているのだから。
夜の浜辺。女が宇宙人に導かれて旅立つ場面はあまりにも美しい。構築から脱した後の「行先」を求めて漂流が始まる。
もはや自明だろうが、この作品が小説とも脚本ともなっていないのは、著者自身も構築を脱したからである。現実の彼が、迫り来る時間に漂流する様は、作中の「僕」とも「女」とも重なる一種のフラクタル(自己相似形)を成している。
さて、彼はしたたかに、ふたつの問いを刻んでいる。誰ともなく向けられた問い。
ひとつは”onyva”。これはフランス語で「もう行きましょうか?」の意味である。ここでとりわけ注目したいのは、ニュアンスとして「ここにいてもしょうがないから」といった意味が含まれることだ。この小粋な漂流への誘い。
そしてもうひとつは宣戦布告。「読み手」は「書き手」に陵辱される。それが快感である、と。もう選択は引き延ばせない。目の前に迫る漂流から、「逃げ出せる術はない」のである。それは「映像作家」高橋Dが引いた伏線なのだ。
この勧誘と脅迫に対して、仮にあなたが返答する衝動にかられてしまったのなら、もうとるべき行動はひとつだと思うのだが、いかがだろうか。
おわりに
上の文は私が2002年 3月に、高橋Dの著作「onyva」を受けて書いた批評を加筆・修正したものである。今回
webに載せる誘いをいただき、改めて拙文を読み返し、脱構築論について読み込みが足りないと思われたので、勉強し直し、大幅に訂正した。
結果、「onyva」考察の基本路線に変更はないものの、執筆当時と今とでは、読後感に若干の違いが生じたのも事実である。だが若気の至りと言っては自己満足かもしれないが、多少の深読み、拡大解釈、さらには誤解を含めて目をつぶってしまうことにした。
読んでいただければわかるが、これは批評というよりもほとんど解説である。まあ、小説の文庫版についてくるあれだと思ってもらって差し障りない。なぜこんな形式にしたかというと、現代思想の台頭とともに「意味から強度へ」の流れができたわけだが、しかし、決して人間は意味から離れることもできないのである。深い洞察とは、強度を発見することではなく、埋没している強度に物語を与えて救済することではないか、これが私の基本スタンスなのだ。この「onyva」考察には、自戒や反省も含めて、そのもっとも始原的な形があったのではないかと、初々しく思う。
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