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生方至は緊張した面持ちで固唾を飲んでいた。ロビーに置かれている木製の小さなテーブルの辺りを歩き回りながら、腕時計をチラチラ見ている。気合いの声と共に竹刀のぶつかる音が轟いては、テーブルの上に置かれたコーヒーカップが小さく震えた。
「至、そんな緊張しないでよ。別にここに入門するわけじゃないんだからさ」
遥は軽口を叩きながら、ロビーの奥に立てかけられている不動心という額に視線を走らせる。至もその視線に釣られて額を見て、顔を強張らせたままソファーに身を預けた。
二人は戸井町の隣にある柏台町の剣道場の一つへ来ていた。昨夜、秋穂の通夜で遥が中学時代の友人から教えてもらった場所である。至が秋穂を殺した男は剣の腕からして素人ではないのではないかと考えたことが、剣道場について聞いて回るきっかけになった。そもそも遥が目で追えないような一撃を加えられる男である。
一風変わった門下生、もしくは卒業生がいないかどうか剣道場を回って調べてみないかという至の意見を姉は快諾してくれた。親しみやすく、男女問わず友達の多い遥の協力がそうした聞き込みには必要不可欠だったから至はほっと胸を撫で下ろしたものだ。
「そりゃそうなんだろうけど、こういう体育会系のところってどうも苦手なんだよ」
「なんで至はこういう体育会系らしいものがダメなのかな? あたしはこういうのはこういうので面白いんじゃないかなって思うんだけど」
中学時代こそ強制的に部活動を余儀なくさせられたものの、至は基本的に部活というヤツが大嫌いだった。それというのも先輩後輩というタテの関係が嫌いで、余計な気を使わないですむヨコの関係の方が好きだからだろう。
遥は至と違って誰とでも仲良くなれる性格だから部活でも常に人の輪の中心にいるし、部活を厳しいと思ったことも数えるほどしかなかった。
「待たせてしまったのかな? どうも、すみませんね」
紺色の剣道着をした中年の男が二人の姿を認めて近付いてきた。この剣道場の師範代である立川さんだった。遥の友達の伯父にあたる人物だ。「あの、単刀直入に聞きますけど川部が殺された事件で、殺したのは剣道着らしきものを着ていたって話を姉貴が仕入れてきたんですよ」
「生憎だが、ここにはそういう問題を起こすような奴はいない」
至の言葉に間髪入れず立川さんが答えた口調はひどく素っ気ないものだった。
「そういう意味じゃないです。えっと、実は素行に問題がある人とかすごい腕前の人とかがこの辺りに住んでいるっていう事実や噂があるかを確かめたかったんです」
立川には見えないところで弟の足を思い切り踏みつけながら、遥は立川の話に割り込むようにしてすぐにフォローを入れる。
「つまり、それはウチの道場以外のところでそんな噂が出てないかってことかな?」
「そういうことです。だいたいここの人が秋穂を…なんて考えたくもありませんから」
彼はその言葉に一瞬相好を崩したが、すぐに表情を引き締めた。
「剣道を嗜んでいて素行に問題がある奴か……少なくとも俺は知らないな」
遥は幾分がっかりしたようだったが、至はまったく顔色を変えなかった。ここに着く前から、そんな簡単に犯人の足取りが掴めるわけがないと覚悟していたからだ。そもそも被害者を増やし続けているだらしない警察も一度くらいは調べに来てるのではないかと考えていたくらいだ。実のところ自分が警察と同じ道を歩んでいるのかどうか確かめたいが為に彼は遥にここへ来ることを提案しているようなものなのだ。収穫が上がることなど正直な話あまり期待していないのだ。
「そうか……でも犯人の後ろ姿か何かを見た人がいたんだな? じゃあ様子を――」
「まあ、いたにはいたんですけどそんなに詳しく覚えてないって……下手に憶測で言うとあたしが迷惑するだろうからってちゃんとは教えてくれなかったんです」
遥はそう言ってその場をごまかした。立川も彼女の嘘に気付かず、その話題はそこまでにして別の話題へと移っていった。
――もし俺が問われていたならば、ちゃんとごまかせただろうか。
至は遥を見つめながらそんなことを考えていた。自分の正直すぎて嘘がつけない性格を考えると今回はツイていたのかもしれないと思った。
「至くん、でも警察はそのことを知っているのかな?」
「はい? どういうことですか?」
立川の言葉に至は我に返ったものの、話がどう展開していたかが戸惑いを見せた。
「お姉さんが話しているお爺さんのことを警察は知っているのかなと思ったんだ」
「さあ、どうなんでしょうね? 聞き込んできたのは、その、姉貴だから……」
すがるような視線を姉へ向けると、侮蔑にも似た冷ややかな視線と絡み合った。
「そもそも警察はお爺さんのことを知らないと思いますよ。あたしたちだって、たまたまあの場所の近くで会ったってだけですしね。あたしたちの方で聞かれない限り、教えられませんし。お爺さんもおぼろげにしか覚えていないみたいでしたから。あたし達は警察が出来ないような地元の力で犯人を追い詰めようとしているわけですし」
遥は少し早口になりながらも一呼吸でそこまでしゃべりきった。
「その為には警察をいい意味で利用するのも大事だと思うけどね」
立川はそう一言呟いたが、それは二人への忠告のようなものだったろう。
「まあ、あたしたちに捜査の手が及んだらその時には話しますよ」
「そういえば、君たちと亡くなった川部さんは子供の頃から仲が良かったらしいってウチのが言ってたな。それこそ今日か明日中に来るんじゃないか?」
何気ない一言に至の顔がほんの一瞬彫像のように凍り付いたことに遥だけでなく立川も気付いたようだが、どちらもそのことを指摘しようとは思わなかった。
「そうだ、この辺りには剣道の強い奴はいないけど、剣豪の伝承は残っていたよな」
二人を道場の入り口で見送りながら、立川がポツリとそう漏らした。
「剣豪、ですか? そんな人いましたっけ? ……」
至は不思議そうに首を傾げた。遥は至と違って剣豪の名前など片手で数えられるほどしか知らないから考える素振りすら見せていない。
「おいおい俊慶が……あ、そうか。あいつは辻斬りだから知らなくてもしょうがないか」
彼は呼び止めてしまったことに苦笑いを浮かべている。
「その人について最近何かあったんですか?」
「ああ、実はその俊慶が祀られている――というより供養されてるって言った方が正しいのかもしれないな――扇ヶ沢神社の御神体である太刀が盗まれたって言うんだよ」
「太刀って……あの長い方の日本刀ですよね?」
遥が狼狽し、彼女らしくもないことを尋ねる。
「まさか、誰かがそれを使って辻斬りの真似をしているとでも?」
至は笑い飛ばしたい気分だった。今の日本で、そんな時代錯誤なことを考える奴がいるだろうか。いや、辻斬りとは今風に言えば通り魔であり、稀に通り魔による連続殺人事件が起こっていることを考えたらそう頭ごなしに否定はできないとすぐに思い直す。
「違う。まあ、そういうことも考えられないわけじゃないけど。だいたい俊慶を供養するための神社だって言ったろ? そこの神主は俊慶の我流剣術の型を節句ごとに奉納するっていうしきたりがあるんだ。そいつは当然俺たちの剣道なんかよりもよほど実戦向きだ」
「つまりそうしたものを見たり、やっている人間……神主さんたちも疑えってこと?」
「手ぶらで返すのも悪いしな。まあ、こんな昔話、関係ないだろうけどさ」
立川が照れ笑いを浮かべた。その爽やかな顔は彼を五歳ほど若く見せている。
二人は剣道場から彼らが見えなくなるまで黙っていたが、門前で見送っている立川の視界から消えたのを確認するとまず姉が話を切り出した。
「ねぇ、至。二手に分かれない? 至は伊野さんのところに行ってよ」
遥は――実は至も内心では――そのまま扇ヶ沢神社に行ってみたかったのだが、二人にはそうもいかない事情があった。今日はすでに戸井町内会会長を務めている伊野のところに行くという約束を取り付けてあったのである。
すでに期待を込めた瞳が至を捉えて離さない。生まれてから今日までの十七年間、至はずっと一度決めたら二度と譲らない姉の性格に振り回され続けてきた。だからだろう、こういう時には素直に諦めることが癖になりつつあった。
「…………こうなるかなとは思ったんだ。でも俺が会長さんのところに行ったところで嘘はすぐバレるぜ。そういう人相手の聞き込みは姉貴がやった方がいいんじゃない?」
「大丈夫よ、たださっき立川さんが言ってた剣豪の話は聞いてきてよ。お年寄りってそういうこと詳しいんじゃない?」
至は渋々といった感じで頷くとわざとらしくため息を吐いてみせた。
「姉貴こそちゃんと神社に行って、その何とかっていう剣豪のことちゃんと聞いてこいよな。その人を祀っているって立川さん、言ってたじゃないか」
遥は少し頬を膨らませると黙ったまま自宅の方に歩いていった。生方家のある住宅街の奥にある小高い丘の中ほどに扇ヶ沢神社はあるのだ。一旦自宅で自転車を取ってこないと、帰ってくるまでに日が暮れてしまうだろう。
二年前、中学三年生の時は遥と秋穂と三人で初詣に行ったのだが、その時行ったのが扇ヶ沢神社だった。お参りの甲斐あってか、三人は志望校に入ることが出来たのだから、来年はまた三人で行きたいねと今年の初詣の際に姉が言っていたことが思い出される。
あの時以降、至はあの神社には行っていないが、見晴らしのいい丘にある神社がそういう血塗られた侍を供養する為にできたとは到底信じられない気持ちでいっぱいだった。
だが、海外の作家の誰だったかの本に東欧では小高い丘など見晴らしの良いところに墓を建てるのだと書いてあったことが彼の頭を横切り、こういうやり方もありかもしれないなと至は思い直した。
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