僧院の朝は早い。朝というより夜の続きから始まる。
3時40分起床。熱帯の国とはいえこの時間は少々肌寒い、眠い目をこすりながら床から起き上がるが、タイル張りにゴザ一枚敷いただけの寝床にはまだ慣れず、背中が痛い。昨日のうちに蚊帳をつってはいたが小さすぎて足に触れていたため、布越しにあちこちさされていた。枕もとに置いた懐中電灯を手探りでもちクティから出る。足元を照らしながら外に出ると当然まだ星空が広がっている。お堂へ向かうとまだ誰も来ていなかった。先に扉を開け外を見ると、林の木々の間から光がゆれてこちらに来る。先輩僧のクティは林の奥にあるのだ。さぞかし蚊も多いだろう。
4時になると皆がそろい一日の始まり、読経を開始する。
まず二人一組となり正座の状態からつま先立ちの苦しい体勢をとり、一人がサパターアパティヨー・アローチェミ・・・サパター・クルラフガーアパティヨ・アローチェミ・・・・と唱え始める、相当な早口かつリズミカルにだ。もう一人はそれにかぶせてサートゥ・サートゥと唱えて合唱のようになる。僕はこの始まりの一節のリズムがとても好きで、日に日に上手くなっていくのがとても楽しみだった。この一節は後で意味を説明してもらうととても笑える内容だった、というのも『私は未だ未熟で、今日一日を戒律に沿ってすごすことできず、間違いを犯してしまうかもしれません。よって先に謝っておきます。』という意味なのだ。過ちを犯すことはある、しょうがないときはしょうがないという厳格さに欠けるタイ人ののんびりさが顕著にでている一節ではないだろうか。しかし、インドから伝わってきた時点でも本当にこの一節があったのか非常に疑問だ。
これが終わるとタイ式の正座である横座りの体勢をとり本格的な読経が始まる。日本のお経は平坦な唱え方で終始するが、タイのスワットモンはほぼ歌を歌っているのと同じだ。非常にリズムに富んでいる、節があり、音程の上下が非常に大きい。大声出して読経するのは合唱の練習に近いものがあり、始めは節がわからないものの毎日唱えているとだんだんリズムを覚えてきてうまくなるのがわかるので、全く飽きることがない。頑張ってみんなについていくとあっという間に1時間が過ぎる。ここでも必死で唱えているので僕だけ僧衣の下は汗だくになり、一種の高揚感とスポーツの後のような爽快感が伴う。
5時、読経が終わり瞑想に入る。僕は実は瞑想が苦手で、頭を無にしなくてはならないのだがストイックな生活をしいられるためか、落ち着きの無い思考のせいか瞑想というよりも妄想が始まってしまい収集がつかなくなる。悟りへの道がどれだけ険しいかすらわからなかった。
5時半、しびれた足が立つことすら拒否するころに瞑想終了。よれよれっとふらつきながらひとまずクティに戻る。朝のお勤めが半分終わってほっとする。クティからバーツ(お鉢)をもってきて食堂(?)前の机に集合。アーチャン(師匠)を除く7人が集合する。僧院内にいるときは片方の肩にかけていた僧衣を、首から下全部が隠れるように着直す。これからビンタバート(托鉢)が始まる。今日一日分の食事を朝一回のビンタバートで集めきるのだ。パンゴン村をくまなく回りめぐってくるために、西側街道沿い、東街道沿い、村落中心の3ルートに分かれて回る。
西ルート・・・森の中を通って行くためにふかふかの落ち葉に足が守られて歩くのが楽で、距離も短い。
東ルート・・・アスファルトの道と未舗装道路が続き、裸足の足に小石がざくざく刺さって痛くてしょうがないので、どうしても先輩僧に付いていくのが遅れる。その上距離も3km程歩く。
村落内ルート・・・距離は短いが家があるところをずっと通るので、一番もらいが多い。しかし知り合いばかりなので少々気恥ずかしい。