プンは突然来た外国人僧にとても興味を示しどこまでもついてきた、クティに入って休もうとするとそこにもやってくるので、部屋には入ってはいけないと追い出すと部屋の周りを奇声を上げながら走り回り、窓から顔を出してくる。相手をしなければじきに行ってしまうが、外に出るとどんな遠くにいても一直線に駆け寄ってくる。かわいげはあるが何日も風呂に入っていない垢まみれの手足と、汗と鼻水と泥だらけの顔を僕の僧衣にこすりつけてくるのにはどうにも閉口した。そこで、寺で修行中の小坊主さんノーン・ネーンに命じて(彼の方が2週間先輩ではあるが)風呂嫌いで逃げるプンを水屋にぶち込み、頭の先から足の先までヤシ殻のタワシでごしごし汚れを落とした。ノーン・ネーンは10歳にも満たないのに、実にしっかりしたヤツでよく面倒をみてあげていた。プンが逃げても走って捕まえしかりつけ、毎日繰り返して清潔にすることを教えた。また、プンは人とのコミュニケーションのとり方が良くわかっておらず、いつもあごを少しあげ加減にして薄目を開けてなんとなくへらへらした笑いを浮かべ、怒られても、転んで痛くても、(たぶん)悲しくてもへらっと笑うだけで人の話をちゃんと聞いて理解できない。別に知恵遅れというわけではないと思う、ただ人にしっかり接したことがないのだ。両親にも甘えられず、友達もいない。唯一寺のアーチャンはプンを村の子としてしっかりと向き合い、常識を外れた行動をすればしかりつけて教育しようとしていたが、プンもやはりしかられるのは嫌でアーチャンには少し逃げ腰だった。その代わりにどうやら僕になついてしまったようなので、自分のできる範囲では面倒を見てやることにした。プンは元の色がわからないくらいに汚れた服一着しかもっていないので洗濯もできないから、市場の立つ金曜日にもう一そろい買ってやり、ちゃんと人の目を見て話すこと、ありがとうとごめんなさいを言うことを教えた。短い期間だったので、それほどプンは代わらなかったが、面倒見のいいノーン・ネーンのおかげで前より頻繁に水浴びだけはするようになった。旅行者としてバンコクの乞食に出会った時はお金をあげることにも抵抗があったが、プンには同じ村の住民として何かしてやることに抵抗は無かった。プンは僕が通過者からいつのまにか生活者になったことを感じさせてくれたような気がする。
寺に入って7日目、朝のビンタバートの前に自分のクティのある僧院の3階のテラスから東の地平を見ていた。今日一日が終わり明日になれば寺をでて俗人に戻ることになっている。まだ冷たい空気にふれながらカンボジアに続くなだらかな山々を見ていると、まだまだここにずっといたいとも思うし、抜けられなくなってしまったらどうしようとも思う。
タイに来てから随分たくさんの人に助けてもらって生きてきたなあ、そのお返しはいったいできるのかなあとぼんやり考える。後ろでガタガタと物音がする、先輩僧がバァツを支度する音だ。ぐっ、とひとつ伸びをする。さて最後のビンタバートに出かけよう。
その日も一日淡々といつものお勤めをこなしてゆく。僕にとっては最後の日でも他の僧達にとってはどこまでも続く、果てしない毎日のうちのひとつだ。
その日の前日、めずらしく昼間出かける用事が無かったらしく、僧院の敷地でぶらぶらしていたアーチャンに瞑想が上手くできないんですといった。アーチャンは瞑想について答えてくれた。アーチャンの話は仏教用語がいろいろ出てきて時々意味がわからないが大体理解できた。
瞑想とは自分の心がどんなときも静かに保ち動じないための訓練だ。例えば、誰かにからまれたとする。そのとき一々腹を立てて相手したら殴られて怪我するかもしれないし、逆に怪我させて恨みを買うかもしれない。そんなときに感情を動かさず、相手にしないでかわしてしまう、そういうことができるようにするためのものだ。そしてトモ、人生に意味を求めちゃだめだ。人生は飯を食って、寝て、仕事して、子供を育ててくそれだけのものだ、何のために生きているのか何をしたら良いのか意味を求めちゃいけない。それから生きていくってことは、なんでも不確かなんだ。次の瞬間何が起こるかわからない。この間そこの保育園でテレビのアンテナ立てていたヤツのこと覚えているだろ?お金ができてようやく作ることができたアンテナが立て終わる直前に傾いて電線に触れてしまって、作業していたやつは感電して死にかけて入院してしまった。あれだよあれ。次の瞬間何が起こるかわからない。今をしっかり生きることが大事だよ。
そんなことをいってアーチャンはすたすたと立ち去っていった。確かにアーチャンの言う通り何がおきるかわからない人生に、意味など考えず淡々とやっていくことがすべてなのかもしれない。でも僕には悟りきって淡々とやっていくには若すぎるようだ、そんな気分になるのはもっと年寄りになってからでいい。今のところはせいぜい生きている意味をもとめてあがいてやろう。
淡々としたいつもの一日を送った翌日の朝5時、5人の僧に囲まれ最後の儀式を済ませて僧衣を脱いだ。アーチャンの机には新しい僧衣が2着置いてあった。明日小坊主さんになる子供が2人来るそうだ。出て行く一方でまた新しくやってくる人がいる。
外にでると、昇り始めた朝日がまだ青い頭に痛い。
カンボジアに続く山は目にしみるくらいに緑で、地面はどこまでも続いている気がしてくる。どこにいようと住んだ場所ではそこでの日常があるだけだ。
僧院を後にした次の月、百年一日を過ごす村から煮えたぎった街バンコクに出た。日本へ向かう飛行機に乗り機体が地面を離れると、なにかとてつもなく大きなものが自分の中からぽっかりと抜け落ちたのを感じた。